独立前 日本軍 独立宣言 独立戦争 独立後
何故に太平洋戦争に向かったのか

太平洋戦争という呼び名は、戦後アメリカ側から出た呼称。

このブログの目的は、
インドネシアに残った日本兵を書くことにあるから、
彼らの呼称であった、大東亜戦争を使いたい。

何故に、日本は大東亜戦争に突入したのか。
極端に言えば、
欧米列強の圧迫を受け、戦争にならざるを得なかった。
....
と、

さはさりながら、外交の失敗から、無茶な戦争をしてしまった。

....
の二通りある。

が、これらは、いずれにしても結果論である。
ここでは、そのどちらも述べる気はない。
違う視点から大東亜戦争に至った理由と、
それが負けて当然だった理由を書いてみたい。

まず、大東亜戦争に至った理由だが、
直接的には、1941年のハルノート(アメリカからの最後通牒)を
受け入れれずに、戦争に突入したことになっている。

が、その前に、1933年の国際連盟脱退があり、
さらに、その前に1905年の日露戦争、1894年の日清戦争がある。
これらの国際社会への日本の台頭がハルノートに結びついている。
では、何故に日清戦争になったのか、

いろいろあるだろうが、
オレは明治維新直後の征韓論がゆえと思っている。

征韓論は、明治維新の廃藩置県で職を失った武士の雇用確保に、
西郷隆盛が主張したものだが、西郷隆盛が敗れて一旦は下火になった。

が、海外への進出気運はそれでは収まらなかった。
それが証拠に、征韓論の翌年の1874年に台湾に出兵している。

このように職の確保を海外に求めたことが、
外国との軋轢を生み、ゆくゆくの大東亜戦争に結びついたと思っている。

さて、では、何故に征韓論が現れたかと言うことであるが、
オレは戦国時代の終焉が、その伏線にあると思っている。

明治維新時の廃藩置県で、武士はその職を失ったが、
1603
年の戦国時代の終焉で、やはり多くの武士が職を失った。

で、この時は、各自が自分で海外に職を求め、傭兵となった。
1612
年シャムにわたり王となった山田長政もその一人。

インドネシアでもそれはあった。
1623
年に起きたイギリスとオランダの戦いの、
アンボン事件には、イギリス側に9名の日本人傭兵がいたことが記されている。

このようにアジア全域に広がっていた日本人傭兵だが、
1633
年に本格的な鎖国令が出されると共に、補充がなくなり、
せっかく海外進出の芽があったのに歴史の中に消滅してゆく。

オレが思うに(えらそうに「笑」).......

この鎖国令で、本来、海洋国家と農業国家の両面を持っていた、
あるいは、両面が進歩していった可能性がある日本が、
農業国家一本やりになってしまったのじゃないかと考えている。

立地環境から海洋国家としての芽がありながら、
それをつぶされ、農業国家一本になった不自然さが問題だった。
不自然であるが故に芽は消えないで残っていた。
で、明治維新後、すぐに征韓論を思いつくに至るのだ。

さらにその後、西欧にならって急に海洋国家になろうともしたが、
........
時すでに遅かった。

遅くから伸びてきた日本は、出る杭は打たれた。
打たれ打たれて、四面楚歌になった。
その結果が大東亜戦争だったのである。

鎖国がなければ、海洋国家として、もっと早く、しかも緩やかに、
諸外国とつきあいができ、出る杭打たれるという状況にはならなかった。
結果として、大東亜戦争にならなかったのではなかろうか。

いずれにしてもナショナリズムが成熟していないが故に起こった戦争だった。
オレだけのちょっと偏った歴史観ですが、そう思うんです。

閑話休題......

大東亜戦争に負けて当然だったという話も、
私の見方で書きたいと思うのですが、
ここまで書くのに、随分と活字を打ちました。
明日のブログに延期することにとします。



何故に大東亜戦争に負けたのか


今回、インドネシアの独立と日本との関係を
調べるにあたり、これまで知らなかったことを知り、
驚いたことがあります。

インドネシア語となっている「ロウムシャ」の実態です。

日本軍は、インドネシア人をスマトラの鉄道建設や
ジャワの炭鉱開坑などに強制労働させました。

その労働は厳しく、やせ細って死者が出たり、
強制的に連れ出され若者が居なくなった村では、
米の収穫ができなくなり餓死者も出ました.....

ここまでは、今までも知っていた知識です。
が、それだけではなかったのです。


日本軍は、インドネシア人をマレー半島まで連れて行き、
そこでも強制労働させていたのです。
これは知りませんでした。

ロウムシャを国外にまで連れ出してたのです。
これではまるで奴隷です。

このように日本軍は、戦争遂行のための
労働力は、インドネシア人を奴隷化することで得ました。

これでは現地人が不満を持って当然です。
さらに、食料は無理やりに供出させ、現地調達しました。

これも現地人にとっては、大変な重圧でした。

それに、軍隊までも現地調達しようとしました。
ヘイホ(兵補)、ペタ(郷土防衛義勇軍)などの現地兵です。

何故にこうした行為に及んだのか、
兵站が伸びきっていて、自前で賄えなかったからです。

昔、昔に読んだ「インパール作戦」を思い出します。
指揮した牟田口中将は、食料の不足は途中で調達し、
弾薬の不足は敵から奪う計画で、兵を前へ前へと行進させます。
補給がない行進で、兵はどんどんと病に倒れたことから
「死の行進」と呼ばれているという内容でした。
これも兵站が伸びきっていたための失敗でした。

大東亜戦争の目的は、
インドネシアの石油やボーキサイトなどの資源のゲットでした。
が、日本からインドネシアは、余りにも遠かったのです。

兵站の面で言えば、インドネシア人の理解を得て、
協力を得ることが絶対な必須要件だったのです。
なのに「バカヤロウ(有名な言葉です)」と、
強面のみで成就させようなんて、
嫌われることが解っており、どうにもなりません。

大東亜戦争に負けた原因としてよく言われるのは、
ミッドウエー海戦の敗戦です。

が、あれは、たまたま負けたのであって、
状況が変われば、勝ってたかも知れない戦いでした。

もっと、根本的なものに眼を向けねばなりません。
次に言われる原因は、国力の差(120)です。

それはそのとおりですが、それを言うなら、
日露戦争の時もそうでした。


あれやこれやで、
オレは、大東亜戦争の敗因は「日本人におごりがあった」から、
と、思っています。

そして、この「おごり」の出所ですが、
日露戦争に勝利した頃からの大衆迎合からでした。

大衆迎合では、
個人の良識も、華々しい意見に埋没されがちになります。
赤信号みんなで渡れば怖くない、ではいけないのです。
日本人は、「日本人だけで群れる癖」があります。
これも、大衆迎合のひとつの表れです。

さらに、この大衆迎合の出所ですが、つきつめてゆくと、
封建時代(江戸)を乗り切ってきた民衆の知恵に行き止るのです。

「知恵」ですから、普段なら佳い事づくめのはずです。
が、思いやりや、やさしさだけに「知恵」が集中すると、
「おごり」を咎める意見もかき消されることがあるのです。
日本人の心底にある、大衆を乱さないという思いやりにも、
功罪の両面があると私は思っております。

また勝手なことを書きました。
次回からは、個人的意見を書き過ぎないように注意します(笑)。