生き残ったバリ人戦友が語る残留日本兵 |
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まえがき |
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手元に残留日本兵(高木米治)遺児のアリニさんから
頂いた資料があります。
インドネシア独立戦争で生き残ったバリ人兵士達が、
一緒に戦った戦友のことを語った証言集です。
その中から残留日本兵のことが語られているものだけを
アリニさんが寄せ集めて収集してくれていたのです。
12名の残留日本兵が語られています。
今はもう証言したバリ人兵士達は生存していないでしょう。
古い証言らしく、バリ語も使われているらしいのです。
インドネシア語もままならないのにバリ語が含まれるとなると、
私は、全く歯がたちません。
それをどんなふうに発表してゆこうか.....
もうひとつ問題があります。
私の「残留日本兵」のホームページを読む人が増えているんです。
ブログは日記であり一回限りですが、
ホームページは、後々の資料という意味があります。
そういう意味では、ブログで語る以上に充実させたいのです。
で、ホームページには、日本語の大意と同時に、
インドネシア語の原文も掲載した方が良いのでは....
と思ったりしています。
いずれにしても、
ブログとホームページをどのようにシンクロしてゆくか…....
を考え込んでいます。
んで、次のように書いていくことを決めました。
1、エヴィさんに日本語に訳してもらいながら、
聞き取り筆記したものをそのまま発表する(ブログ&ホームページ)
2、土地名、人名などは、聞き取り筆記と原文とを
比べながら必要なら修正する。(ホームページだけ)
3、調査してゆく段階で前に書いたことを訂正する必要が生じた時、
ブログでは過去を修正しないがホームページは修正してゆく。
ということで、明日から
「生き残ったバリ人戦友が語る残留日本兵」をスタート致します。
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バリ島の日本兵を知る最後の人 |
福祉友の会に、墓標339は、大館である、
と証言してくれたのが、右の稲川義郎氏。
昨年(2012年)の10月、バリ島に来られ、
私の行きつけの店「ムティアラ」に寄られた。
独立戦争で戦死した日本兵を
弔うための訪バリであった。
私はバリにいなくお会いできなかった。
元気ならば、来年も来ると言ったそうだ。
松井・荒木をはじめ、
バリで戦った日本兵を知る最後の人だ。
今年は、お会いして、お話を聞きたい。
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今後の調査 |
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表の12番、墓標300番の高木米冶について
高木は日本海軍特警隊出身である。
日本軍時代は、バリ人反乱事件の容疑者逮捕および取調べを担当していた。
バリ人からも恨まれることが多かったものと思われる。
1946年2月、高木はバハの日本人収容所で警備を担当していた。
村の市場へ出かけた折だった。
菓子や果物を売る小さなワルンをやっていたクトゥット・クリティと出会った。
やがて二人はマルガー郡ブラユー村のクリティの実家祠前で、
ささやかなバリ式の結婚儀式をし夫婦となった。
その後マルガーの闘いでグラライと共に玉砕するが、
夫婦の間には、娘さんが授かっており、今もご健在のはずである。
であれば、私とはそれほど違わないご年齢だ。
お会いしてお母様から聞かされている話などお聞きしたいものである。(調査終了)
表の3番、墓標339の大館について
大館(海軍軍属)のところで掲載した銅像の写真は、
ネット上からの借り物である。
もう3年前になるだろうか、私も銅像を見に訪れている。
が、写真が残っていない。
確か撮っているが、探しても見つからない。
もう一度現地を訪れ、写真をとり調べなおしたい。(終了)
表の16番の土屋道義について
土屋氏については、ワヤン・グヌンとの現地名のみが知られており、
日本名が誰なのかは、つい最近まで分らなかった。
が、前述の稲川氏の調査で宮崎県宮崎市出身の土屋氏と判明した経緯がある。
土屋氏も第三警備隊で、月森部隊に所属していた。
彼は、独立戦争中、バリ島からジャワへ向かった船で生き残り、
東部ジャワのブリタル市で暮らしたという。
独立戦争では、存分に暴れたらしいがその記述に接したい。
(今般、消息につき稲川様からお聞きした、いずれ掲載する)
表の3番、墓標の320番の松井久年について
私がプナルンガン村を訪れて、直接聞いたところ、
荒木・松井には、現地で結婚したなどの話はなかった。
が、松井には現地に家族がいたかも知れないふしがある。
真意を調べたい。(調査終了)
福祉友の会の調査の裏づけをとりたい。
福祉友の会の調査による、独立戦争に参加して、
バリ島で行方不明になったものとして、次の3名を挙げている。
① 姓名不詳 海軍将校
② 中野 陸軍伍長
③ 福士由蔵 北海道 22特攻 水長
①は、多分、堀内秀雄のことであろう。
②は、墓標554の中野であろう。
が、 ③の福士については、情報がない。
福士由蔵の情報を得るべく心にとどめておきたい。
その他
プナルンガン村から日本軍の収容所があった、「バハ」までは6キロほどである。
「バハ」に出向き、日本軍が収容されていた痕跡を調べたい。
プナルンガン村に行く途中のスンピ村から、
脇道に入りしばらく行ったところに松井と荒木を祀った寺院があるという。
車が入れないらしくバイクに乗って調べに行きたい。
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稲川様にお会いできました。 |
2014年10月30日、稲川様にお会いできました。
後日の私のブログを転載します。
稲川さん、おはようございます。 体調はいかがでしょうか。 先日は、お会いできお話を聞きでき本当にうれしかったです。 私のブログを隅々までお読みいただきチェックされているとのこと、 ありがたく拝聴いたしました。 今後も事実をしっかりと調査して書き綴ってゆきたく思います。 11月20日のマルガラナの慰霊祭には私も行ってまいります。
稲川様の分までお詣りしてまいります。
私のブログを読んでおられる方は知っていると思いますが、 私はかねてより稲川様にお会いしたいと思っておりました。 稲川様は、日本軍統治時代に、バリにおられました。 残留日本兵を直接に見知っておられる方です。 先般の私の日本帰国時、東京の稲川様宅にお邪魔しました。 私のかねてよりの念願が達成できたのです。 たくさんのことを稲川様から教えていただきました。
私の大きな財産になりました。
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