リ島の残留日本兵 
平良定三 高木米治 荒木武友 / 松井久年 ワジャ
堀内秀雄 大館 工藤 栄 美馬芳夫
堀内秀雄

写真は、戦後日本に帰り、
世話になったバリ人との交流を目的に設立された、
「バリ会」のお世話をする堀内氏(左側)。

その「バリ会」で発表された堀内氏の手記、
「バリ島での回想」から、
氏の独立戦争を追ってみる。


堀内秀雄は、海軍の短期現役の経理将校だった。
昭和195月頃、第3警備隊の庶務主任としてデンパサールに赴任した。
仕事の内容は、「会社で言えば総務や業務などのことで、
軍隊的活動は殆どしておらず、時々一般的軍事訓練に参加していた」
そして、「インドネシア住民との親しいつきあいは、殆どなかった」という。
その堀内秀雄が戦後第3警備隊から脱走した。
時期は連合軍(オランダ軍)がバリに上陸してきた昭和213月頃のようだ。
堀内氏は「戦後から連合軍上陸まで第3警備隊の本部を移すことがあり、
その過程で三警を脱出した」と記している。

脱出した堀内氏は、それまでいろいろと世話になっていた、
バリホテル従業員の父子の郊外の家に身を寄せた。
この父子が独立運動に関係しており、
その関係からングラ・ライ司令官の軍と接触し参加するようになった。
堀内氏は独立軍と行動を共にし、
山野を転々としながらオランダ軍に対するゲリラ戦に従事した。
独立軍はオランダ軍との正面衝突を避けたが、
あるときは対空火器でオランダ軍の飛行機を打ち落とした。
独立軍には他の日本人もいたが、
行動はいつも一緒ではなかった。

タバナン付近の戦闘で部隊はオランダ軍の攻撃を受け、
離れ離れになってしまった。
堀内氏はちょうど刈り入れ時だった、
畑の農民の群れの中に紛れ込み、一命をとりとめた。
しかし、足に怪我を負っていたため、そのまま農民の家に運ばれた。
足の怪我がたいしたことがなかったが、
約一ヶ月、治療のため村人に世話になった。

が、結局はオランダ軍に発見され、デンパサールの刑務所に収容された。
この刑務所内で堀内氏は、平良定三さんとスンバワから同行した、
木村軍曹と同一人物と思われる、「木村さん」がいたことを記憶している。

堀内氏はこの後、多分戦犯容疑の取調べであろう。
セレベス島のマカッサルに送られた。
ここでまた拘留され、昭和22年始めごろ日本に帰国した。

ムンドゥク・マランでの堀内秀雄

タバナンのムンドゥク・マランで、
オランダ軍と抗戦するための
陸軍本部共通協議会が開かれ、
ングラ・ライ司令官の軍隊の
主だったものが結集した。
その場所には、
右のようなモニュメントが建てられている。
モニュメントの広場横の建物の中には、
会議に参加した主だった者の
氏名の公表をしている。

中に8名の参謀の
氏名がある。(左写真)
その最後部に
HERAUCI」の名がある。
堀内秀雄のことである。

今回発表したバリ人戦友が語るインドネシア語の原文では、
Nyoman Sayang
を「HERAUCI」と記している。
Nyoman Sayang
 は、「HERAUCI」であり、堀内秀雄である。

さらに右の写真を見て欲しい。
広場横の建物の中には、
会議の模様を写生した6体の銅像がある。
正面にはングラ・ライが座っている。
そして、右の写真の銅像のことである。
この者(右の者)だけが、
日本海軍の将校の帽子を被っている。
この銅像は、堀内秀雄ではなかろうか。
以前は各銅像の帽子の横に誰のことであるか、
名前が書かれていた。
しかし、その頃は日本人が居るとは思わず、
私は、その記名を見逃していた。
先日、再度名前を確かめるべく、
ムンドゥク・マランに行って見た。
が、残念なり......
銅像が金ピカに塗りなおされていた。
書いてあった名前も全て消されていた。
確かめようがない。


が、おじいさんがインドネシア軍人であった、エヴィさん(私の友人)は、いろいろ調べた上で、インドネシア軍はこういう帽子を被らない、と断言する。
そう言いきる彼女の発言にオレも同感だ。
この銅像は堀内秀雄に違いない........

バリ人戦友が語る堀内秀雄(Nyoman Sayang)

日本名は堀内秀雄であった。 
彼はいつもングラ・ライに近い立場にいた。
彼は日本海軍の中佐であった。 
日本敗戦時の彼は海軍のヌサ・テンガラの副司令官であった。 
その時の彼は30歳の若者であった。
彼の風貌は日本人のように見えなかった。
西洋人のように見えた。
背が高く痩せており、目が大きく無口であった。
彼の態度はいつも非常に丁寧であった。
日本でも裕福な家庭(貴族)で育ったということであった。

彼は、政治的信念をもって、バリの若者と戦いを共にした。
彼がいうには、天皇陛下はインドネシアを独立させるために、
我々を戦争に差し向けた。
であれば、その約束を果たさない限り、戦地を去ることはできない。
インドネシアの独立が達成するまで、私はあなた方兄弟と一緒に戦う。
独立できなければ、私はバリで死ぬであろう。

1946
411日のデンパサールの戦いで彼のその言葉が実証された。
彼は「竹やり」を持って、この戦いに参加したのだ。
これはいつでも死ぬ覚悟があったからだ。

その頃、バリ人のングラ・ライに対する評価に、
ングラ・ライは戦闘に参加せず戦いの手法ばかり考えている、
という理由で臆病者よばわりするものがいた。
彼はそうした意見を述べるものを諭した。
ングラ・ライは指揮官であり、作戦を立てることに没頭して当然である。
ングラ・ライを臆病者よばわりする者の方がおかしい。
と諭したのである。
彼のインドネシア語は流暢であった。
彼はオランダ軍に捕まり、投獄されたあと、日本に送還された。



(註)

タバナンの山のムンドック・マランというところがある。
ングラ・ライは、この地で「陸軍本部共通協議会」を行っている。
この会議では、作戦を担当する参謀は、8名いたことになっている。
その8名の中の一人が堀内秀雄であった。
nyoman Sayan
がングラ・ライの側近であったことが伺える。

バリ人が語るところ彼は日本軍では中佐であったことになっている。
また日本敗戦時の彼は海軍のヌサ・テンガラの副司令官であった。
とも語られている。
が、それらはどちらも正しくない。
福祉友の会の日本側の記録では、主計大尉となっている。
この方が正しい。
ただし、ここではバリ人に語り継がれる残留日本兵を書くのが
目的であり、そのまま掲載した。

(原文)

I Nyoman Sayan alias Hera Uci ini juga termasuk orang dekat I Gusti Ngurah Rai walaupun berkebangsaan Jepang. Pada masa revolusi fisik, baik dalam keadaan gawat maupun aman, beliau selalu dekat dengan I Gusti Ngurah Rai. I Nyoman Sayan adalah Letnan Kolonel Angkatan Laut Jepang. Sebelum Jepang kalah melawan Sekutu, beliau menjadi Serei (Wakil Komandan Angkatan Laut Nusa Tenggara). Pada waktu itu orangnya masih muda, berusia lebih kurang 30 tahun. Beliau tampak bukan seperti orang Jepang melainkan tampak seperti orang Barat. Karena badannya agak tinggi dan kurus. Kalau saja matanya tidak sipit, pasti orang akan mengira beliau orang Amerika atau Inggris. Beliau berpenampilan sangat sopan dan agak pendiam. Beliau keturunan Bangsawan Beshido dan ayahnya adalah orang terkaya di Jepang pada jamannya.
Beliau menggabungkan diri dergan pemuda pejuang Bali khususnya karena keyakinan politik. Letnan Hera Uci pernah menuturkan kepada Ngurah Pindha bahwa beliau meninggalkan kesatuannya dan bergabung dengan para pejuang kemerdekaan RI, karena ingin menepati janji Tenno Heika yang mengatakan hendak memberikan kemerdekaan kepada Indonesia. “Saya lebih baik mati jika apa yang sudah kami janjikan tidak dipenuhi. Saya akan turut berjuang bersama Saudara-saudara hingga kemerdekaan Indonesia betul-betul tercapai, atau saya mati di Bali ini”, kata I Nyoman Sayan kepada I Gusti Ngurah Pindha. Ini betul dibuktikan pada saat pertempuran di Denpasar tanggal 11 April 1946. Ketika itu beliau rnenggunakan senjata bambu runcing menyerbu tangsi Kayumas di bawah pimpinan Ida Bagus Putu Djapa. Itu rnenunjukkan bahwa beliau menganggap jiwanya sangat murah.
Menyinggung rnengenai ada penilaian orang terhadap I Gusti Ngurah Rai yang mengatakan penakut, Hera Uci menyatakan bahwa orang yang mengatakan I Gusti Ngurah Rai demikian, adalah orang kepala kiri-kiri (orang sinting). Mungkin maunya agar I Gusti Ngurah Rai menyerbu seperti prajurit biasa. Orang itu tidak tahu apa-apa. Kalau Nippon, komandan seperti I Gusti Ngurah Rai berada di staff beakang, hanya duduk di belakang meja. Demikian kata Nyoman Sayan. Beliau termasuk orang Jepang yang sangat lancar berbahsa Indonesia. Waktu berkata kepala kiri-kiri beliau tertawa sinis. I Nyoman Sayan Akhirnya dikirim ke negeri Jepang setelah tertangkap oleh serdadu Netherlands Indies Civil Administration (NICA). Sebeumnya sempat dipenjarakan di Denpasar beberapa bulan.