リ島の残留日本兵 
平良定三 高木米治 荒木武友 / 松井久年 ワジャ
堀内秀雄 大館 工藤 栄 美馬芳夫
美馬芳夫

昭和58年6月15日発行の「オールネービー」に掲載された、バリ島にあって終戦処理をした、月森省三氏の「バリ島の聖戦完遂者」という記事がある。
その中に、月森氏がバリでの残留日本兵で唯一生き残った平良定三氏と会って話した内容が記されていて、月森氏からの「日本兵が日本名を名乗らず何故にバリ人名を名乗ったのか」との質問に対し、平良氏が「日本兵士の所在がスパイされるから」との理由を述べたことが記されている。 
そして、平良氏は、美馬芳夫の戦死もそのスパイ行為が原因であったと述べている。
以下、平良氏が語ったことをそのまま転載する。


(平良定三氏証言:美馬芳夫の戦死)

日本兵士が参加している義勇軍の駐屯地に限って
十倍の兵力と百倍の火力を持ったオランダ軍に急襲されました。
日本兵士の所在がスパイされていたのです。
耳慣れない日本名を探してスパイする人間がいたのでしょう。
私もスパイされた経験があります。

バリ島北部から南部の中原に転進中、
シンガラジャのクランディスの民家で仮営している時、
オランダ軍に包囲されました。

我が軍の十倍の兵力で寝込みを集中攻撃されたのですから、
小銃の応戦だけでは、ジリ貧のままで、
手榴弾を投げ込まれれば全滅というところでした。
ところが、その時、美馬芳夫海軍二曹(徳島県支渋野町出身)が
小銃を乱射しながら、戸口から飛び出したのです。
つまり、陽動作戦というのでしょうか。
オランダ軍の銃火が美馬兵曹に集中した隙に、
我々は九死に一生を得て脱出しました。
美馬兵曹は、そのまま斜面を転がるように谷川に姿を消しました。
オランダ軍は、美馬兵曹を追って
谷底の川面に自動小銃を満遍なく打ち込んだ後、
止めを刺したものと引揚げようとした瞬間、
谷底からの銃声一発でオランダ軍の将校は谷底に転落しました。
それを見て、オランダの夜襲部隊は散を乱して撤収しました。

翌日の捜索で美馬兵曹の遺体は川下から発見されましたが、
両大腿貫通銃創による出血死で、両足はぶらぶらの状態でした。
埋葬に参列した義勇軍の若い兵士達も
一身を犠牲にした乾坤一擲の美馬兵曹の行動に
戦闘の厳しさを肝に銘じたようです。
8年後、美馬兵曹の洗骨にクランディスに行きましたが、
両下腿だけで上半身がありませんでした。
私は今でもその不思議さを気にかけております。


美馬芳夫を追う (2014年7月12日)

..
美馬芳夫は、Kelandis の民家に隠れているのを密告され、
オランダ軍に襲われ、kelandis の地で戦死している。
そこで一端埋葬され、8年後に掘り返されている。
これだけの大きな事実があれば、
たとえ65年前のできごとであっても、村人の噂で言い伝えられているに違いない。
美馬芳夫が撃たれた場所を探すのは、それほど難しくないだろう......と予測した。
が、時すでに午後3時、急がなければならない。
アクセルを吹かして、Tambakan村 に入った。
で、三叉路を右折して北に向けて細い道に入って、しばらく走ると....


とんでもない、悪路に入った。
登り降りの繰り返し、
であるばかりか、砂利・岩・赤土・水溜り・コンクリートが
それぞれにむき出して、バンラバラに転がっていて、
まるで、スキーのモーグル状の凸凹道路。
が、Bon のモニュメントを見に行った時に、経験していたのでなんとか運転できた。
坂道を登る時は、平らなところを走るとスリップしてずり落ちる。
で、わざと石ころや岩のかけらがあるガラガラ場所を選んで、アクセルを踏む。
と、車は右や左に激しく傾きながら、ガッシャガッシャと上に登れる。
こんな道の繰り返し、いつになったら kelandis に着くのだろうか。
ところどころで、人に出会う。
そのたびに「kelandis」を聞くが、「行けるが遠いヨ」の返答ばかり。
ここまで来たら、引き返せない。
とにかく前に進もう、とヤケクソに運転した。
右に大きな穴がある。
タイヤが落ちては、多分抜け出せない。
左からは大木の枝が伸びている。
ええい、枝にこすっても車が傷つくだけだ!
てんで、枝をこすりながら、前に進んだことも.....
そうこして、着いたのが、此処、ちょっとした峠の頂上、
に、「ここからKelandis」 の表示があった。



表示から道を挟んで反対側にワルンがあった。
まさに「峠の茶屋」である。


中央に写っている娘さんの言葉を聞いてびっくりした。
「車が来たので、びっくりした」
「一年に一台ってことはないけど、2台しか見ないよ」
「ここを通る車......
そうなんだ、それはそうなんだろう、尋常じゃない!
このあと、峠を降りて人家があるたびに、「kelandis 村か?」聞いた。
どこでも「そうだ」と言う。
バラバラに散らばっている人家の集合体がkelandis 村であるようだ。
人家があるたびに、日本兵のことを聞いてみる。
周辺でオランダ軍とバリ軍との戦闘があったことは知っていても、
日本兵のことは、だーれも知らなかった。
多分、知ってる人を探せなかっただけだろう。
が、その頃のオレは、もうクータクタ。
エヴィさんは腰が痛い、カミさんは踏ん張る足が痛い。
オレは、ハンドルを強く握るので肩が痛く、アクセルを踏む右足が痛かった。
で、それ以上の聞き取りを諦めた。
kelandis
から Tamblang を抜け、キンタマニー経由でサヌールに戻った。
サヌールに着いたのが、夜の8時、
美馬芳夫について、今後、調査することはもうない、諦めた。

それにしても諦めないのがオランダ軍。
日本兵がいるとわかると、こんなところまで追っかけて来やがって。
しつこいにもほどがある!!