リ島の残留日本兵 
平良定三 高木米治 荒木武友 / 松井久年 ワジャ
堀内秀雄 大館 工藤 栄 美馬芳夫
平良定三の証言

バリ島に残った最後の残留日本兵であった、
平良氏がお亡くなりになったのは、200465日でした。

お亡くなりになる直前は、デンパサールで旅行業をしておられましたが、
私の友人のバリ人が生前の平良氏に逢ったことがあります。

インドネシア独立戦争から60年経ていますが、
また聞きであっても、こうした経緯で平良氏の実話を聞くと、
60
年がつい最近のように思えてなりません。


(
証言) 平良定三

バリ島で生き残ったのは、私一人です。
少ない日本人が独立戦争に参加して、部隊は各々違うけれど、
生死を共にして最後まで戦い抜こうと約束しました。
そう約束したのに、自分だけ生き残って帰ったのでは、
戦友の霊に済まないと思い、残留を決意しました。

その決意をしたときのことを
平良氏は、さらに詳しく次を語っています。

戦友の霊が祀られている英雄墓地の一周年記念に、
招待されて行ったときのことです。
インドネシア人の英霊には、
家族が料理を作って来てお供えをしておりました。
しかし、日本人の英霊には花がちょっとあるだけで、
淋しい気持になりました。

私は戦友の墓前に、
私が生きている間は必ず毎年来るから淋しいけれど我慢しなさい。
私は絶対に帰らない、と墓前に向かい約束をしました。
だから親不孝と言われようとも日本に帰れないのです。

平良は、山を降りた年に結婚し、
その後自転車修理工で生計をたて、
日本人がバリ島を訪れるようになった1971年、
デンパサールに出て、観光業を始めました



写真は、1984106日、
氏の長男で大学の先生をしている
スミトラ氏の結婚式のものです。

後列左が平良、
その右が妻のメリダです。

(証言者) 平良定三
1920
114日生、 沖縄県出身
台湾歩兵1連隊 軍曹



(証言)

日本軍を離隊する。

1945
817日、
私はインドネシア東部スンバワ島の海岸警備中に終戦を知りました。
バリ島シンガラジャの中隊に戻ったのは、9月の初めのことです。

島では若者が胸に紅白のマークをつけ、
ブロンタ・ムルデカ(立て、独立のために)と、
声を張り上げていました。

アジアの解放を中隊長から訓示されていた私は、
バリ島の若者の姿に心を打たれました。

私にとって敗戦はショックでした。
とりわけ故郷の沖縄が米軍の猛攻撃に合い占領されたと聞いて、
もう帰れないのだなと思いました。

出征したときから私は死を覚悟していましたから、
独立戦争に参加して日本人らしく死ねればと考えたのでした。

終戦後のバリには、連合軍の上陸はなく、
我々は日本軍の宿舎に寝起きしていました。

その年の12月のある夕刻のことです。
ロウソクの炎に照らし出された宿舎の一室に、
30名の仲間が集っていました。

私は、独立軍に参加するため今夜離隊を決行する。
参加意志のあるものは手を上げてくれ、と低い声で言いました。

しかし、みんな無言です。
私は彼らの表情の中に戸惑いを見ました。

微光の中に照らし出された手は三つ、
木村伍長、田島軍曹、中野伍長でした。
(後にこの3名は全員戦死し私だけが残りました)

その夜は 離隊決意を書いた決意書に血判を押し秘密を誓い、
10
時をまわってから隊長の阿南秋夫少佐に報告に行きました。
隊長は、普段から尊敬できる人物でした。


我々4名は、今夜12時をもって、
独立軍に参加すべく離隊いたします。
私がいうと、
数分の沈黙のあと少佐は、

そうか……と静かに口を開き、
お前達の気持はよくわかる。 
お前達のとろうとする行動について、
今は、良いとも悪いとも判断がつかない。
結果は歴史が解明するであろう。
ただ、私には兵士を親元に帰す義務がある。
そのために私は隊長として、
お前たちを止めることも薦めることもしない。
と言いました。

そこで私達は、
有り難うございます。
長年お世話になりました。
それでは今夜12時に部隊を離れます。
とことわり、そこから出発しました。



特別遊撃隊を編成する

出発した翌日のことです。
1
人の青年が帽子を深く被って、
私達を横目でジロッと見て通るのに出逢いました。

これはひと癖ある男だと思ったので呼び止め、
貴方は誰かと聞いたところ、
そこの村の村長だとのことでした。

貴方の家にちょっと寄らせてもらいたいと、
村長の家に寄ったところ、夜になって大雨になり、
村長は食事を出してくれて大変歓待してくれました。

私達は相談して、
私達の行動を村長に打ち明けることに決まりました。
そして万一彼が私達のことについて、
日本軍に通報するようなら、
村長を打ち殺そうということで、話をしました。

私達の話を聞くと村長は私達の手を握り、
有り難うございます。
待っていました。
と言ってくれました。

その村長はウデ・ウィジャヤといって、
今でも(証言の当時)健在です。

その部落では民兵組織は出来ているが、
指導者が居らず困っているということで、
それなら私達がやりましょうということになりました。

そこで1週間ぐらいしたら独立軍本部からの命令が出ました。
バンリ地区とカナガッサム地区の青年を指導してくれ、
というものでした。

そこに着くと、約100人以上の青年が集っていました。
そこで、昼は基本教練、夜はゲリラ戦の訓練を行いました。

ある時、オランダ軍の相当数の自動車が
キンタマニー地区に集結する様子がありました。

それに抗するため、私は隊長に
特別遊撃隊をつくってくれ、と具申しました。
又、その遊撃隊は日本人を主としてやらせて下さい。
とも付け加えました。

それに対してオナガイ隊長は、

それは出来ない。
私が貴方がたに銃を持って戦ってくれとは思っていない。
日本人が居るということだけで士気があがり、
敵の襲撃をおさえることが出来ます。
貴方がたが前線に出てしまったら、ここがからっぽになります。
敵の密偵がこちらに入っていることは確実です。
今、貴方がたが出撃すれば、敵に直ぐその情報が入ります。
それだけはひかえてもらいたい。

といいました。

しかし、私は食い下がりました。
オランダ軍が終結してしまうと、わが本隊が危険です。
敵を混乱させる行動が必要で急を要します。

オナガイ隊長は、
よし、そうであるなら貴方の言うことを受けましょう。

しかし、その遊撃隊の隊長は、
必ずインドネシアの青年でなければいけない。
独立はインドネシアのためだから、民族精神として、
インドネシアの青年を隊長に選んでくれなければならない。
というのです。

オナガイ隊長もしっかりした考えをもった立派な軍人でした。
結局は、隊長にプラプティという青年を選びました。
日本が作ったベタの小団長をしていた男でした。

このプラプティの元、我々の推薦した若者を加え、
18名の特別遊撃隊を作りました。
主としてキンタマニー高原近くでゲリラ戦を行いました。



6
人だけで2年間戦い続ける。


この遊撃隊で、敵の移動部隊20数台を襲撃するなど、
それなりの戦果をあげたこともありました。

が、戦闘を繰り返すにつれ、
情況はどんどん悪化してきました。

1948
8月、独立軍の大部分が王様方に降伏したからです。
王様側というと、オランダ側ということになります。
大部分がオランダに寝返ったのと同じです。

私たちの部隊もひとり欠け、ふたり欠けて、最後は、

イドハック・スタント、
ユイドバグス・タム、
チョクロガサン・ムガ、
ナカ・タム
グスト・ニョマン・ウイリー、
それに私の6人しか残りませんでした。

この6人でその後の2年間を戦い続けました。
戦闘というよりは、情報を集めて宣伝合戦をしました。

私達は毎日が敵の中にあって包囲されていました。
オランダ軍は、私の名前をあげ私を捉え殺した場合は、
石油缶いっぱいの銀貨を賞金として与えると、
飛行機からビラをまきました。

そこで私は、
私の生命は石油缶3個の銀貨でも取り替えることは出来ない。
オランダの幹部の生命10人だったら、まあまあどうかなどとか、
ニヨマン・ブレレン(私の名)は逃げも隠れもしない、
あなた方が宣伝しているそばに居るのだと、
密偵を通じて逆宣伝したりしました。


現に戦闘する力はないけれど、
宣伝で独立への民族意識を植え付けようとしたのです。
そのうちに戦闘力も整えられるだろうとの時間稼ぎでした。


独立戦争が終り、ジャワの方は独立が達成してからも、
こちらバリは1950年まで戦闘が続きました。
私達は、まだ山から降りませんでした。
オランダ軍が襲撃してくるから、降りられなかったのです。


ジャワ島は独立したとのことですが、
こちらバリ島ではそうではありませんでした。

そうこうしている間にジョクジャカルタの方から、
その後国防大臣になったユスフ元帥(その頃は大尉)が、
使者となって来ました。
バリ島のゲリラを山から降ろすという役目でした。
私たちはその説得を受け入れ、山から降りました。


山から降りた私たちでしたが、
他の戦いがあって、
すぐにカルジュナと言う軍隊を組織しました。

それは、オランダとの戦争をするためではありません。
インドネシア人でオランダ側についたものを国賊と考え、
それらと戦う為の軍隊でした。

新しく組織を作ったのは、もうひとつ理由がありました。
その頃、インドネシアは独立したのに、
バリは連合共和国として別の独立の形をとっていました。
インドネシアには、西と東に大統領がいたのです。

東の方は、スコアティーというのが大統領で
副大統領がアナアグン・グデ・アグンでした。
これはオランダの作った大統領制だったのです。

我々は、独立のため戦っていたのですから、
このオランダ側の大統領につくのはいやなのです。

オランダが作った大統領制が基礎を固めるのを待っていたら、
西部インドネシアが困ることになります。

また、バリの住民は、東の大統領につくのは嫌だ、
という意思表示をはっきりとしなければなりません。

それで、このバリ島では事件を起こそうと考えたのです。



3
年間、刑務所に収監される

ということで、私達は好んで事件を起こしました。

オランダ軍側に寝返った者をつぎつぎと殺しました。

我々だけではありませんでした。
バリ島全体が立ち上がったような熱気の中でそれが行われました。

でもこの行為、国のためバリ島のためにとった行動でしたが、
対外的、国際的には、暴動になるのでしょうね。
それがもと、私は捕まって、
3
年間刑務所に行くことになりました。


刑務所には、同じような罪で入牢の者が2500人もいました。
刑務所では、最初の3週間はものすごい拷問にかけられましたが、

が、しばらくして私は、入牢者の治安副隊長に任命されました。
したがって、所内では比較的に楽に過ごせました。
3
年間で4回の裁判がかけられ、証拠不十分で釈放されました。

刑務所を出た後も共産党弾圧事件などがあり、
どちらが敵か味方かわからない、
いつやられるかわからない、ようなごたごたが続きました。

1960
年頃までは、
自分の家でゆっくり寝たことがありませんでした。

ようやく安定が見えた頃、
私は死んでいった戦友の霊を慰めるために残留を決意しました。

野晒しになっていた戦友の遺体が集められ、
バリ島に英雄墓地が作られたのが1956年のことです。
私は独立戦争の記憶をたぐり、戦友の遺体を掘り起こして、
英雄墓地に収容しましたが、日本人であるかどうかは、
独立戦争後5年以上経っていたので、判別はできませんでした。

独立戦争当時、私はブレレンと名乗っていたように、
日本人は皆、現地名を名乗っていたことも
判別を難しくする理由でした。


仕事の合間を見て調べたところ、
20
名の日本人が戦闘に加わって死んでいったことがわかりました。

私が知っている戦没日本兵は次のとおりです。

ブング・アリ(梶原)、 マデ・プトラ(高木)
ワヤン・スクラ(松井)、マデ・スクリ(荒木)
ブン・ラマット、 ブン・チャング
クトット(木村)、 グデ(田島)
クトット(美馬)、 マデ(中野)
ワヤン・グデ・ワジャ、 ワヤン・グヌン
クトット・スニョウ、曽我
満富、 工藤、 大久保、 平田林之助、 片岡三喜


日本名がわからない人も多くいます。

戦争中はよかれと思って現地名を名乗っていたのですが、
結局は彼らの日本名を確認できないという、
皮肉な結果になりました。

せめてもの供養にと、
毎年欠かさずに英雄墓地に行くようにしています。

1993
8月  平良定三



1993
107日、
福祉友の会の乙戸昇がバリ島に来て、
平良の案内でマルガ英雄墓地を参拝しています。
乙戸は、日本人英霊を守っている平良に接し、
感激したことを月報に掲載しています。
その一部は後日ブログに書きたいと思っています。


バリ人戦友が語る平良定三(Nyoman Buleleng)

日本名は平良である。
彼は早くからバリ軍として戦う意志を示していたが、
それが認められるに長い期間がかかった。
カランソーンに行ったときに、初めてバリ軍人と認められた。
彼は、戦うごとに名前を変えていた。
カラガッサムでは、彼はニョーマン・スラタと名乗った。
彼は、バリ人にゲリラ戦の戦い方を教える指導者であった。
カラガッサムでは、カランスクンという地で、ゲリラ戦を教えた。
その地が、スパイによりオランダ軍に通報され、彼はバンリに逃げた。
バンリに行った彼は、ニョーマン・バンリと名乗った。
バンリでは、ブキット・プヌリサンというところでオランダ軍と戦った。
その闘いでは、オランダ軍を相当殺した。
彼は次にブレレンに行った。
そこで、彼はニョーマン・ブレレンと名乗り、
それ以降は、ニョーマン・ブレレンだけ通すようになった。
彼の友人であったアナック・グデ・アノムムティタは、
彼との会話を良く覚えている。
彼はグデに「死ぬも生きるもおまえと同じ」と言った。
遊撃していた彼の部隊は、あるとき本部は南に移ったとの噂を聞いた。
彼はその情報にしたがって南に移動した。
そして、ランプーというところで本隊と合流した。
その頃、オランダ軍はキンタマニーに集結していた。
彼は、ングラ・ライに特別遊撃隊を作るように頼んだ。
ングラ・ライは、味方軍の中にもスパイがいる、
そういうものを作っても筒抜けだとして、承諾しなかった。
が、あるとき、スパイが見付かり排除された。
その時点で特別遊撃隊が承認された。
ただしングラ・ライから条件が出された。
オランダ軍を勝手に襲ってはならない、という条件であった。
それを了解しての特別攻撃隊が作られた。
そのメンバーは18名であり、たいがいがブラキューの村民であった。
特別攻撃隊は、ランプからシンガラジャまで、戦いながら侵攻した。
少しづつオランダ軍に捕らえられ、人数が少なくなったので、
アンブガンというところで部隊を解散した。
解散したあとも何人かのグループを作り、行動を続けた。
チェルカンバワンという港町を襲う計画があった。
その時、彼はこの計画に反対し、これを止めた。
一般の村民を戦いに巻き込む危険があるということが理由であった。
ただ、その夜、オランダ軍に襲われた。
飛行機からの攻撃も行われた。
彼は、やっとのことで、バンジャール村に逃げ込んだ。
そのバンジャールで、仲間が再編成され、作戦会議がもたれた。
オランダ軍のスパイをどう見つけてどう殺すかという会議であった。
その時、彼は、スパイとてバリ人である。
それを見つけて殺すよりも、独立の意義を教えた方が良い。
と発言した。
彼のアドバイスで助かったこともあった。
彼は、「夜は喋るな」「夜は煙草を吸うな」とか、ゲリラとしての心得を
徹底して主張し、周囲に守らせた。
したがって、彼の仲間はオランダ軍に見つからず生き延びることができた。
オランダ軍は、彼のこうした指導を伝え聞き、彼の首に賞金をかけた。
が、彼は捕まることなく、独立戦争終了まで生き延びた。

(原文)

I Nyoman Buleleng nama aslinya Taizo Taira, tanggal 11 April 1920 merupakan hari kelahirannya di kota Okinawa, Jepang. Riwayat pendidikan: Syogakko (setara Sekolah Dasar) tahun 1927 s.d 1932, Koto Shogakko selama dua tahun (1934 s.d 1936). Kemudian melanjutkan ke Chugakko dan tamat tahun 1940. Dalam usia 19 tahun mulai menjadi tentara Jepang. Dalam usia 21 tahun diperintahkan untuk ke Cina. Kemudian melanjutkan ekspansi ke Filipina dan langsung sebagai kepala pasukan meriam.
Jawa Timur merupakan tempat pendaratannya untuk pertama kalinya di Indonesia. Selanjutnya menuju Malang, Salatiga, Surabaya akhirnya langsung ke Kupang. Pernah mendapat tugas di Atambua dan Dili. Akhirnya sekitar tahun 1945 pindah ke beberapa daerah di pulau Sumbawa. Pasukannya yang bernama Rentaiho dibubarkan di pulau Sumbawa, karena telah terdengar berita Jepang sudah kalah melawan Sekutu. Setelah itu, beliau menuju Lombok Tirnur dan terus ke Lombok Barat. Dari Lombok Barat berlayar dengan perahu kayu yang memakai mesin menuju Padangbai dan selanjutnya menuju Kusamba, Klungkung. Di Kusambalah beliau tertarik dengan perjuangan kemerdekaan Indonesia menurut pengakuannya, bahwa beliau membantu perjuangan bangsa Indonesia melawan Netherlands Indies Civil Administration (NICA) karena sama-sama bangsa Asia, walaupun pernah menguasai Indonesia.
Selanjutnya beliau melakukan penyingkiran ke beberapa daerah di Bali seperti Kediri, Singaraja, Banyumala, Bungkulan, Bilubajang, Tajun, Kembang Merta, Penelokan, Kintamani, Kubu, Besakih dan lain-lain. Pernah beberapa orang pemuda dari desa Kubu mengusulkan kepada Anak Agung Gede Anom Mudita agar mau menerimanya sebagai teman akrab dalam perjuangan. I Polos dan I Gede Wija adalah di antara para pejuang yang pada mulanya mengajak beliau untuk berjuang. Berdasarkan sepucuk surat dari Markas Besar Umum Dewan Perjuangan Rakyat Indonesia (MBU DPRI) Sunda Kecil, beliau diminta bergabung dengan pasukan pemuda dan disuruh segera menuju Karang Suung, Bangli untuk melatih para pemuda. Saat Taizo Taira berada di Karangasem, dinamakan “Nyornan Surata”, sebagai pencetusnya Gede Wija. Di Bangli beliau lebih dikenal dengan sebutan Nyoman Bangli. Namun setelah pindah ke Buleleng, beliau dipanggil Nyoman Buleleng.
Jumlah pemuda yang dilatih oleh Nyoman Bangli di Karang Suung sekitar 100 orang. Pada siang hari diberikan teori dan pada malam hari dilatih perang gerilya. Tempat mengadakan latihan itu setelah seminggu kemudian diketahui oleh NICA melalui mata-mata mereka. Oleh karena itu, tempat tersebut segera dibongkar dan I Nyoman Bangli segera berangkat menuju Bangli. Sebelum tempat tersebut ditinggalkan, ditanami ketela terlebih dahulu agar jangan sampai ada bekas asrama. Bersama Anak Agung Gede Anom Mudita untuk pertama kalinya di daerah Bangli melakukan pencegatan terhadap serdadu NICA di daerah Bukit Penulisan. Dalam serangan tersebut banyak serdadu NICA dapat ditewaskan. Kemudian Nyoman Bangli dan Anak Agung Gede Anom Mudita membangun semangat para pemuda desa agar rnau membantu para pejuang di dalam membela dan mempertahankan kemerdekaan. Pada saat terjadi pertempuran di daerah Bukit Penulisan itulah Anak Agung Gede Anom Mudita berjanji dengan Nyoman Bangli. Janjinya itu begini, “kalau Nyoman Mati saya mati dan kalau Nyoman hidup saya hidup”.
Pada saat Nyoman Buleleng berada di Bangli, beliau mendengar kabar bahwa Pasukan Induk MBU DPRI Sunda Kecil akan segera menuju ke arah Timur. Pasukan Bangli yang dipimpm oleh Nyoman Buleleng dan Anak Agung Gede Anom Mudita bertemu di Lampu (Bangli) dan bergabung dengan Pasukan Induk MBU tersebut. Sejak itulah, siang malam bertempur melawan serdadu NICA, Pada waktu mengadakan pertemuan secara rahasia di desa Karang Anyar, I Nyornan Buleleng mengusulkan kepada I Gusti Ngurah Rai agar hubungan Jawa-Ba1i harus tetap dijaga. Putus hubungan berarti kalah. Saat itu NICA memusatkan serdadu di Kintamani. Selanjutnya I Nyoman Buleleng juga mengusulkan agar beliau diberikan pasukan Tokubetsu Yogetitae (Pasukan Istimewa untuk Mengacau). Usul I Nyoman Bue1eng ditolak oleh I Gusti Ngurah Rai dengan alasan, masih banyak terdapat spion-spion NICA di dalam pasukan sendiri.
I Gusti Ngurah Rai kemudian menerima usul I Nyoman Buleleng, dengan pesan agar tidak mengacau tangsi-tangsi NICA yang ada. I Nyoman Buleleng dipilih oleh I Gusti Ngurah Rai sebagai kepala Pasukan Istimewa. Anggota yang lainnya: I Dewa Made Cetag. Ida Bagus Ngurah dan lain-lain. Menurut penjelasan I Nyoman Buleleng, anggota Pasukan Istimewa untuk mengacau sejumlah 18 orang dan sebagian besar berasal dari Blahkiuh. Badung. Dan daerah Buleleng di antaranya Anang Ramli dan Saniman. Menjelang berangkat. I Gusti Ngurah Rai memberikan uang sejumlah 30 ringgit kepada I Nyoman Buleleng. Pasukan Istimewa Bergerak dari Lampu menuju Singaraja dalam keadaan sambil bertempur. Lama kelamaan, beberapa orang Pasukan Istimewa tertangkap termasuk I Made Pugeg. Pasukan Istimewa dibubarkan di banjar Ambengan, Buleleng pada tahun 1946.
Dengan adanya kekacauan di Buleleng Barat I Nyoman Buleleng setelah berada sementara waktu di Bukit Panji berangkat menuju Buleleng Barat. Sebagai pimpinan perjuangan saat itu di Buleleng Barat adalah Dewa Made Suwija. Sedangkan pembelaan staf dipimpin oleh I Jaya. Pasukan Buleleng Barat mau segera menyerbu pos NICA di Celukan Bawang, namun dicegat dan dibatalkan oleh I Nyoman Buleleng dengan alasan bahwa nantinya akan membahayakan rakyat setempat. Setelah pembatalan serangan itu, I Nyoman Buleleng beserta rombongan menuju Tinga-tinga, dan bersembunyi pada suatu tempat yang mirip dengan “pengorengan”. Pada malam hari terjadi kurungan yang dilakukan oleh serdadu NICA terhadap tempat tersebut. Berkat mendapat “Pica Gongseng” di hutan Gerokgak, akhirnya I Nyoman Buleleng beserta pasukannya dapat meloloskan diri menuju arah Timur Laut. Menurut penuturan Nyoman Buleleng, bahwa gongseng yang dibawanya itu diikatkan pada senjata brennya dan bila bersembunyi berarti ada musuh datang. Kapal capung NICA terus mengintai dari atas dan saat itulah kaki I Jaya tembus kena kayu. Dengan susah payah akhirnya beliau dapat menyelamatkan drii sampai di desa Banjar, Buleleng.
Setelah beberapa lama di desa Banjar, I Nyoman Buleleng dipanggil oleh Kompiang Sujana untuk diajak rapat di Staf Selatan, dalam upaya pembasmian spion-spion NICA di Buleleng Barat. Rencana itu sangat ditentang oleh Nyoman Buleleng. Menurut pendapatnya, lebih baik mendidik masyarakat supaya tahu arti merdeka. Saran I Nyoman Buleleng diterima oleh Kompiang Sujana. Dalam masa revolusi fisik, saran I Nyoman Buleleng sangat tepat dan berhasil, terbukti para pejuang yang mengikuti sarannya tidak berhasil ditangkap atau dibunuh oleh NICA. Salah satu saranya: “kalau berjalan pada malam hari, tidak boleh berkata-kata, merokok dan tidak boleh menampakkan diri di jalan”.
I Nyoman Buleleng mengatakan bahwa nama Pemerintah Darurat Republik Indonesia (PDRI) diresmikan di Sinerut dan merupakan ide dari Ida Bagus Tantra. Sedangkan menurut I Nengah Wirtha Tamu (Tjilik) dan I Nyoman Buleleng dalam pertemuan di Sinerut itu ingin membentuk Gerakan Rakyat Indonesia (GRIN). Sampai tahun 1948 I Nyoman Buleleng dikejar-kejar oleh NICA dan bahkan NICA mengeluarkan pernyataan, “siapa yang dapat menangkap atau membunuh Nyoman Buleleng diberi uang tiga perak”. Berbagai cara yang digunakan oleh NICA untuk menangkap atau membunuh I Nyoman Buleleng tidak berhasil. Saat berada di desa Bukti (Bangli) hampir saja beliau tertangkap pada saat hari sedang hujan. Pada saat itu dengan membawa jas hujan dan seekor anjing, beliau dapat melewati serdadu NICA tanpa dicurigai. Pada tanggal 15 Januani 1950 barulah beliau turun dari pegunungan atau pedalaman.
Pasca revolusi fisik, beliau pernah bekerja di Bangli sebagai tukang jaga listrik. Tidak begitu lama akhirnya mengundurkan diri dan pindah ke Singaraja sebagai tukang sepeda. Beliau menjadi tukang sepeda dari tahun 1954 s.d 1972. Setelah berhenti sebagai tukang sepeda, pindah ke Denpasar dan bekerja di Niti Tour sampai sekarang. I Nyoman Buleleng mempunyai delapan orang putera/puteri, dua di antaranya meninggal. Kini beliau dan keluarga tinggal di Jalan Plawa Gang IX/4 Denpasar.
平良定三さんのお宅を訪ねる(2014年2月17日)

その1


写真は、独立戦争を戦っていた時の
平良定三さん、貴重な一枚です。

バリ島において、
日本の敗戦後、日本軍を離脱し、
インドネシア独立戦争を戦った、
日本兵は約20名居ました。
その中で生き残ったのは、
平良定三さんだけでした。

平良さんは、
独立戦争を終えたあとも
独立が遅れたバリ島にあって、
なおも戦い続けていましたが、
ジャワ島から出向いた、
インドネシア軍上官の説得により、
戦いを止め山を降りました。


山を降りたあと、
旧知のモリタさん(写真)と結婚しました。

モリタさんとの間には6人の子供がいました。
1子から3子までは女のお子さんでした。
第4子が男の子、第5子が女の子、
第6子が男の子でした。

2004年6月5日に平良さんは、
お亡くなりになりましたが、
モリタさんは、89歳になられた今もご健在です。

そのモリタさんを訪ねて
平良さん宅におじゃましました。
モリタさんは、第4子で長男の
クトゥト・スワルサさんと同居しておられました。


以下は、スワルサさん、モリタさんが語る平良さんの思い出話です。


(モリタさんが語る)


平良さんはオランダ軍に抗し、
シガラジャから15キロほどのパンジー(Panji)近くの
山中に潜んでいました。

そこには70名ほどのバリの兵士がいました。
平良さんは70名の隊長として指揮をしていました。

その頃、私はシガラジャの近くの村に住んでいました。
私が16~17歳の頃でした。

私の村全体でオランダ軍に隠れて、平良さんの部隊の援助をしていました。
村から選ばれた者たちが時々、平良さんの部隊に食料などの物資を届けました。

オランダ軍に見つかると大変なので気を使いました。
もっとも大変なのは手紙類でした。
食料ならば、オランダ軍に見つかっても言い訳がつき嘘が通ります。
でも、手紙が見つかると嘘が通りません。
手紙を運ぶのはもっとも勇気のある人が担いました。

その手紙を運ぶのが私の役目でした。
私は、米の中に手紙を隠して運びました。
手紙は隊長の平良さんに直接渡しました。
私が平良さんと会ったのは、その時です。
平良さんは、とても背の高い人でした。

その2

右の写真は、平良さんと最後まで一緒に
戦ったバリ人戦友です。
いつ頃に撮ったものか聞き忘れましたが、
独立戦争が終り、
山を降りた頃のものと思われます。
右が平良さん、
あとの二人がバリ人戦友ですが、
スワルサさんは、
すらすらと二人の名前を言いました。
二人は、戦争が終り平和になったあとも、
時々平良さん宅に来たので、
スワルサさんは覚えているのです。
戦友が寄ると昔の思い出話になったそうです。
その話でいつも語られることは、
平良さんと一緒にいると安全であった、
との思い出話だったそうです。




(長男スワルサさんが語る)

父の戦友が教えてくれたことです。
父と一緒にいると何故かオランダ軍に見つからないそうです。
父は、携行の鉄砲に鈴をつけていたそうです。
父から言わせば、お守りの意味の鈴だったそうです。
鈴が鳴るのが聞こえると父がやって来たと判るのです。
が、この鈴、味方には聞こえるが、
オランダ軍には聞こえないらしく、
そのことをバリ軍兵士にとっては、
神がかっているように受け取られていたそうです。
ただ当の父は、なんとも思っていなかったようです。

その3

216日(2014年)に平良さん宅にお邪魔した時の写真です。


写真左の男性が平良さんのご長男のスワルサさんです。
左は、通訳として私に同行してくれたエヴィさんです。
右の写真が平良さんの奥さんのモリタさんです。
スワルサさんとエヴィさんの会話はインドネシア語。
スワルサさんとモリタさんはバリ語での会話でした。
生前の平良さんもインドネシア語は得意ではなく、
ほとんどバリ語を使っていたとのことです。

さて、
平良さんが山を降りたときの話に戻ります。
平良さんは、山を降りてから結婚はしましたが戦争は止めませんでした。
その理由を平良さんご本人が次のように語っております。

(平良さんの証言:再掲載)

山から降りた私たちでしたが、他の戦いがあって、
すぐにカルジュナと言う軍隊を組織しました。

それは、オランダとの戦争をするためではありません。
インドネシア人でオランダ側についたものを国賊と考え、
それらと戦う為の軍隊でした。

新しく組織を作ったのは、もうひとつ理由がありました。
その頃、インドネシアは独立したのに、
バリは連合共和国として別の独立の形をとっていました。
インドネシアには、西と東に大統領がいたのです。

東の方は、スコアティーというのが大統領で
副大統領がアナアグン・グデ・アグンでした。
これはオランダの作った大統領制だったのです。

我々は、独立のため戦っていたのですから、
このオランダ側の大統領につくのはいやなのです。

オランダが作った大統領制が基礎を固めるのを待っていたら、
西部インドネシアが困ることになります。

また、バリの住民は、東の大統領につくのは嫌だ、
という意思表示をはっきりとしなければなりません。

それで、このバリ島では事件を起こそうと考えたのです。
私達は好んで事件を起こしました。

オランダ軍側に寝返った者をつぎつぎと殺しました。

我々だけではありませんでした。
バリ島全体が立ち上がったような熱気の中でそれが行われました。

でもこの行為、国のためバリ島のためにとった行動でしたが、
対外的、国際的には、暴動になるのでしょうね。
それがもと、私は捕まって3年間刑務所に行くことになりました。


(モリタさんが語る)

平良さんが刑務所に入っている間は、先が見えず大変でした。

(スワルサさんが語る)

刑務所から出てきた後も大変だったんです。
シガラジャで自転車屋を始めたのですが、
父に殺されたことで、それを恨むバリ人も多かったのです。
いつも命を狙われているような生活だったそうです。
デンパサールに越して来たのは、1972年に入ってからでした。
そのデンパサールの家に、ある人が訪ねてきました。
その人が言うには、シガラジャで平良さんを殺そうと、
大木の後で平良さんの来るのを待ち伏せしていた。
現れた平良さんは奥さんと二人で自転車に乗って全く無防備だった。。
その無防備ぶりに気押されして、木の陰から飛び出すことができなかった。
完全な独立がなった今は、もう昔の話です。
といったことがありました。

昔の戦争のことを聞きに、日本からも沢山の人が来ました。
日本軍の元上官も訪ねてきたことがあります。
インドネシア軍の高官も父を訪ねて来たことがあります。
東チムールでの騒動の時でした。
ゲリラ戦を仕掛けてくる東チムールに対して、
インドネシア軍はどのように戦ったら良いのかのアドバイスを求めに来たのです。

父は、どのような人にも優しく接しておりました。
ゲリラ戦を指導し戦い抜いたのに、
人へのやさしさを失わなかった父を誇りに思います。

最終回


日本の終戦時にフローレンス島にいた平良さんは、
戦友数人とフローレンス島からロンボク島を経てバリ島に来た。
バリ島のシガラジャに所属する本隊(阿南大隊)があったからだ。
短い行程ではない。
600
キロはある。
それを小さなボートで渡って来た。
大変な海上の旅であったろう。
が、さらりと述べるにとどめている。

本隊に着いた平良さんは、
大隊長の阿南少佐に「離隊」を申し出た。
残留日本兵の殆どが日本軍から脱走しているが、
隊長に離隊を打ち明けて脱走した例は他にない。

二つとも特別なことである。
こうした特別なことができた平良さんをもっと知りたい。
私のそうした想いをメルダさんにぶつけてみた。


(モリタさんが語る)

平良は、バリ島の青年グループのリーダーでした。

(註)それがいつ頃だったのかは聞き逃しましたが、
   多分、独立戦争後あらたに組織した軍隊である、
   カルジュナのリーダーという意味なのでしょう。

平良は、戦いにも一生懸命でした。
その後の仕事にも一生懸命でした。
そして、お金には無頓着な人でした。


(スワルサさんが語る)

無頓着とは、お金を使うことに興味を示さなかったという意味です。
刑務所を出てからは、シガラジャで自転車屋をして働きました。
1972
年にデンパサールに来てから1985年までガイド業をして働きました。
働きづくめでした。

その間、お金のことは全て母親任せでした。
シガラジャの家を売ったり、土地を買ったりするのも全て母親任せでした。

父は、目立つのが嫌いでした。
日本からもインドネシアからも表彰を受けましたが、
戸惑いながら表彰を受ける.....そんな人でした。

(註)写真左は、日本の大使からの表彰状
   右は、インドネシア軍の英雄勲章



平良さんは200465日にお亡くなりになりました。
葬儀はインドネシア軍がとりしきる軍隊葬でした。
まだ10年前のことですから多くの戦友が葬儀に参列しました。
目立つのがお嫌いだった平良さんですが、
多数の戦友に送られて晴れやかに旅発たれたことでしょう。



お墓はシガラジャのSinga Ambararaja (日本の故郷にも分骨)にある。