|
チョコドゥさんが語る。........
この辺りは、
谷や峰が沢山あります。
峰ぞいに道があり、
道のところどころに、
村があります。
村から村への移動は、
峰づたいに行くよりも、
一端谷に下りて、
そこから登った方が
近道なのです。
|
この谷も住民にとっては、通い知ったる場所なのです。
この大きな岩も、昔は赤みがかっておりました。
今は、苔むして、こういう色になっております。
さらに、昔はもう少し高い位置にありました。
大水が出たとき今の位置までずれ落ちてきました。
日本兵二人は、
(後ほど、ワジャとバリ人と判明)
他の場所で撃たれ、
手負いでこの付近に、
逃げ込みました。
一人は谷に入らず、
他の場所に逃げ、
そこでオランダ兵に見つかり、
とどめを刺されました。
もうひとりは谷に入り、
この大岩の陰に隠れました。
|
|
オランダ軍は、
川の上流から一隊、
上流のジャングルに一隊、
川下に一隊の合計3隊が、3方向から捜索をしました。
しかし、彼は見つかりませんでした。
見つかりませんでしたが、彼は出血多量でこの場所で息をひきとりました。
住民は、それを知っていたのですが、
勝手に処理をしてオランダ軍に睨まれても困るので、
三日経ってから、オランダ軍に「どうも日本兵が隠れているようだ」と密告しました。
この場所に来たオランダ兵は、すでに死んでいる日本兵を確認して、
死体をそのままにして、この地を去りました。
住民は、他の地で死亡した、もうひとりの日本兵と
この谷で死亡した日本兵の二人の死体をpelaga の地に運び、そこで埋葬しました。
その場所にお墓を建てたのは、独立戦争が終わり、随分と過ぎてからです。
英雄の墓として、村人で建てました。
...........
とのチョコドゥさんの話です。
写真上はお墓への案内図、写真中段はお墓の全景、
写真下は、お墓に彫られた日本兵の顔です。
インドネシア独立戦争を戦った残留日本兵のひとり、ワジャ。
ワジャの日本名はわからない。
彼は敵を深追いしすぎて、スパイに通報され、オランダ軍に虐殺された。
バリ人は彼の勇敢さを讃え、戦死した場所の近くに埋葬しお墓を建てた。
日本人の誰もが訪れることのなきお墓である。
草が茫々に生える中にあるワジャのお墓。
なんとかしたい。
私費での墓地の整備を申し出ていた。
申請してから3か月、何の返答もなかった。
それが、先ほど、
そう、今より一時間前だが、
地元民から「墓地の整備の認可がおりた」との報が入った。
おりしも明日は、ププタン・マルガラナの式典の日。
独立戦争での戦死者を追悼する日である。
1372の慰霊碑のうち、ワジャの慰霊碑は、324番である。
その慰霊碑に「墓地の整備」を報告できるってことだ。
間に合った。
このタイミングでの、墓地整備の認可.....
大げさだが、運命的なものを感じている。
日本を捨て、インドネシアに味方し、
インドネシア独立戦争に参加して、バリ島で戦死した残留日本兵。
その中のひとりである、ワジャ。
戦死したのは、Badung州、Pelaga村の谷底。
地元民は彼を追悼するためのお墓を建てました。
写真の中央部分に薄く見える二つのコンクリート魂がそうです。
右のお墓がワジャ、日本名はわかっていません。
左のお墓はバリ人で、名前は、I Gusti Ruh Tilem(ワジャと時を同じくして戦死)。
写真で判るように、お墓は藪の中に埋もれています。
で、藪を取り払い、お墓の周囲を整地することの申請をしておりました。
そして、時間がかかりましたが、先日、許可の内定がありました。
整備を具体化するため、関係者が現地に集まりました。
申請者である私と通訳のエヴィさん、
直接に責任を統括する当地バンジャールの会長さん、
それに認可する権限を持つプラガ村の村長と副村長さん達です。
問題になったのは、いつ整備するか、という時期のことです。
お葬式を許される日でないと、お墓の整備をできないというのです。
その日は、11月29日なんだそうです。
問題は、その日だけで工事を終わらせなければならないことです。
工事が一日で終わらないと、続きはまた他の日を探さなければならないそうです。
この理由、よくわかりません。
が、バリ島での習慣は、その地その地で異なるのです。
で、決定したのが、作業員を5人に増やし、
朝の6時から作業を始めて、その日に整備作業を終了させる、ということです。
全てを任せることで、ゴーサインを出しました。
ゴーサインとは、大げさですが、要は費用の全てを支払うという約束です。
11月29日の正午ごろ、工事の進展を見るために現地に来ることも約束しました。
任せたので、どんな風に整備されるのか、よーく判りません。
が、念願であったワジャのお墓を整備できることになって嬉しい限りです。
みなさん、ワジャのお墓の裏には、ジャパン(djepang)と刻印されております。
整備が終わったら、是非に当地を訪れて見ていただきたく思います。
ワジャのお墓の整備状況を
見に行ってきました。
朝の5時から、
5人がかりで、
工事にかかったそうで、
右の写真が
私が訪れた12時の状態。
もう、完全に「お墓」が
丸見えになっていました。
お墓の右に見えるのは、
カミさん。
まだ、工事は途中です。 |
|
この日は、
村人のお葬式(ふたつ)が、ある日で、
お葬式中は、工事がストップするのです。
お葬式が終わったら、また工事再開するそうですが、
大体の整備状況が見え、発注者としては満足できる内容でした。
思ったよりも広い敷地でした。
工事の責任者である、
バンジャール会長とプラガ村の村長さん。
お墓のすぐ傍の道、
お葬式に集まる村人たち。
集まった村人に、ワジャのお墓の存在があらわになりました。
今後はワジャも寂しくないでしょう。 嬉しいことです。
ワジャのお墓に行ってきました。
整備の完成を確認するためです。
入口にセメントが施され周囲の煉瓦も積みなおししてありました。
完成です。
あらためてお詣りしました。
ワジャは、日本人です。
地元の人もそれを知っています。
地元民はバリ人と分け隔てなくバリに尽くしてくれた英雄として敬ってきました。
日本人はそれを知らず、60余年の間、見捨ててきました。
ワジャのお墓は、今ここにあらわになりました。
沢山の日本人がここに訪れて欲しいものです。
そのルートですが、
デンパサールからCarang Sari の方に向かいます。
まっすぐ進むとPelagaの町に入ります。
pelagaには、バリには珍しい長い橋があります。
最近のバリの若者のデートスポットです(脱線)。
その長い橋の手前のPelaga町内に三叉路があります。
その三叉路の100m手前(左側)に、次の写真のような小道があります。
村人は、墓場に行く道として、誰もが知ってる小道です。
学校の横の小道です。
車で入るとUターンが難しいので、歩いた方が良いと思います。
その小道を30m進むと左にワジャのお墓があります。
是非に行ってあげてください。
|