リ島の残留日本兵 
平良定三 高木米治 荒木武友 / 松井久年 ワジャ
堀内秀雄 大館 工藤 栄 美馬芳夫
ワヤン・グデ・ワジャ

ワヤン・グデ・ワジャ.....
通称、ワジャと呼ばれた男。
無謀すぎるほど勇敢で、
バリ人から慕われた残留日本兵。
彼を書いた過去のブログを
再掲載する(下の記事)。
後尾の(註)にあるように、
いつか現地調査をしたいと思っていた。
で、昨日一日かけて行って来た。
目的の「赤い大きな岩」を見つけた。
さらにワジャの「お墓」まで見つけた。
それを連載で語りたい。

午前8時(712日)出発予定が
エヴィさんが遅れてくる。
聞けば、昨日は満月...満月の日のバリ人は、お祈り箇所をいつもの何倍にも増やす。
そう簡単に自由にならないのだ。
バリ人のことをを分かったようで分かっていないオレ、迂闊であった。
で、出発したのが午前9時、
ブラタン湖の東に位置する、Semanik の地に向かった。
途中、Carang Sari の地を通る。
Carabg Sari
は、ングラライ将軍の故郷である。
何かの記念展示があるかも知れない、と探したところ、
将軍所縁と思える比較的新しい寺院があった(右上)。
中に入って見たが、建設途中らしく何の展示もない。
早々に切り上げ、Semanik へと車を走らせた(つづく)。

.........

バリ人戦友が語るワジャ(過去のブログの再掲載)

デワ・プトゥの語るところによると、
彼は、インドネシアの独立のために魂を捧げた日本人であった。
彼は、インドネシア独立のためには死んでもよい、
独立しなければ日本に帰らないと語っていた。
彼は他の日本人と同じく目が細く肌が白く身長は165cmであった。
彼は紳士的であり、バドゥンに沢山の友人がいた。

ニョマンブレレン(平良定三)によれば、
年齢は彼とほぼ同じであったという。

知っているものの証言によれば、彼はとても勇敢であった。
敵が逃げればそれをどこまでも追いかけた。
彼はいつも前へ前へと進むのでバリ人の誰もが彼についていけなかった。
バリ人は、バリ人の精神力はまだまだ弱い、
それに比べて日本人はとても勇敢であることを彼から学んだ。

彼にも欠点はあった。
策略することなく、無茶をしすぎることがあるのだ。
1946
613日のボンでの戦いの時であった。
彼は逃げる敵を追って行った。
その追い方が激しいのでバリ人の誰もがついていけなかった。
が、ただ、ひとりだけ彼についてくバリ人がいた。
そのバリ人はオランダのスパイであった。
ボンの村に近づいたとき、そのスパイは、
「腹が空いたでしょう」
「村に行って何か食料を探してくるのでここで待ってください」
と言って、村に入って行ったのだ。
オランダ軍に彼がひとりであることを通報に行ったのだった。

彼はその男がしばらくしても戻って来ないので、
さすがに騙されたことを気付いた。
彼は後退を始めた。
しかし、その時は、もうオランダ軍が彼を追い始めていた。
ある川のほとりでついに見つかり鉄砲で撃たれた。
数発が彼を直撃した。
撃たれた彼は、そのまま川に飛び込んだ。
Semanik
の東の方を流れる川であった。
その川に消えた彼を見て、
オランダ軍は弾が当たり死んだものと思いその場を去った。

彼はすぐには死ななかった。
そこからだいぶ離れた川の中の大きな岩にたどり着いてそこで命が尽きた。
その大きな岩は赤い色をしており、
村の人からは精霊が宿っていると恐れられている岩であった。

村人は、精霊がワジャをここまで運んできたと噂した。
その噂を聞いてバリ軍はあとでその地を探した。
彼は大岩によりかかる格好で絶命していた。
バリ軍は、彼をその岩から運び出し、デサ・プラで埋葬した。

彼は日本人であった。
しかし、インドネシア独立のために生命を投げ出した。
こうした彼の行動を将来とも忘れてはならない。


(註)

彼がオランダ軍と戦かった「ボン」や、死亡した「スマニックの川」は、
ブラタン湖の東側、5~10キロの範囲にある。
密林地帯であり、比較的に人家が少ないところである。
人家が少ないからこそ、
彼の死亡した経緯の言い伝えが残っているような気がしてならない。
いつの日か、現地に行って調査したい。

ということで、semanik に向かった。
semanik
へは、Sandakan で脇道に入るのと、
pelaga
まで直進して、そこを左折して入るのとの二つの方法がある。
図示してみる。


私は、sandakan を左折して脇道に入る方を選んだ。
過去に走ったことがない道だからである。
そこから約10キロ、きれいに舗装された道を走りsemanik に着いた。
立派な家もある、案外と大きな集落であった。
集落の中心部で、最初に出会った人に尋ねてみた。

右の写真の
右の中年男子(WayanRuja)に、である。
ワジャの話をして
赤い大きな岩を探している旨を告げた。
と、「父なら知っているはずだ」言う。
ありがたい!!
案内されて、彼の家に行く。
ワヤンのお父さんと逢えた。
左のお爺さん、マデ・チョコドゥである。
1940
年生まれというから、現在74歳。
独立戦争当時は、6歳ということになる。
ボンの戦いがあった時、
母から「危険だから外に出るな」
と言われたことを覚えているという。
そして、赤い大きな岩があって、
名前は知らないが、日本兵が、
どんな風に岩に隠れたか、
村の大人に語りつがれたことを
知っているという。
さらに、その者だけでなく、
もうひとり日本人がいたと言う。
はたまた、その二人の墓があり、
Bon の村には、独立戦争のモニュメントもある、と言う。


というわけで、赤い大きな岩に向かった。
マデ・チョコドゥさんのバイクが先導し、それに私の車が続き、
続いて、私たちが迷わないようにと、
しんがりに息子さん(ワヤン・ルジャ)のバイク……という編隊で、
10
分ほど走っただろうか、突然にチョコドゥさんがバイクを道路わきに止め、
横の林(と言ってもジャングル様)の中にどんどんと入っていった。


チョコドゥさんは、常時、無言である。
バリ語のみでインドネシア語を話せないから、
オレには無言なのだろうが、とにかく早いので後を追うのは大変だ。
前方に小さく写っているのが彼だ。
が、カメラを構えているうちに視界から消えてしまった。


オレより四つも年上なのに、
しかも草履履きなのに、斜面を平地のようにスタスタと歩く。
オレは運動靴なのに、2回も尻餅をついて、斜面を滑落した。
滑落したお陰で追いついた。
前を歩く彼を見つけたのだ。


見つけた後も大変だった。
写真など撮れる状態ではない(で、絵を描いてみた)。
これは谷川から戻るとき、
草を掴みながら、必死に登るオレを描いたものだが、
ここを降りる時のことを想像していただければ、お分かりかと思う。


んで、とにもかくにも、谷底に降りることができた。
こんな処であった。



チョコドゥさんは、立ち止まることなく、さらに岩伝いに川を歩く。
オレは、岩の上など歩けない。
しようがないので、靴のまま川にジャブジャブ入り、彼を追った。


なのに、彼を見失った。


と、こんな処に隠れていた.....のではなく、
身振りで「日本人はこういう風に隠れた」というのだ。
そして、右上の大岩が「目当ての岩」という。



遅れてエヴィさんも来てくれた。
途中で「来なくても良い」と叫んだのに、
通訳がいないと困るだろうと、オレのあとを追ってきたとのこと。
ありがたい。


周囲を指差しながら説明してくれるチョコドゥさん。

ワジャがこの岩で亡くなった時のこと......
エヴィさんは、次のように通訳してくれた。

チョコドゥさんが語る。........

この辺りは、
谷や峰が沢山あります。
峰ぞいに道があり、
道のところどころに、
村があります。

村から村への移動は、
峰づたいに行くよりも、
一端谷に下りて、
そこから登った方が
近道なのです。


この谷も住民にとっては、通い知ったる場所なのです。
この大きな岩も、昔は赤みがかっておりました。
今は、苔むして、こういう色になっております。
さらに、昔はもう少し高い位置にありました。
大水が出たとき今の位置までずれ落ちてきました。


日本兵二人は、
(後ほど、ワジャとバリ人と判明)
他の場所で撃たれ、
手負いでこの付近に、
逃げ込みました。
一人は谷に入らず、
他の場所に逃げ、
そこでオランダ兵に見つかり、
とどめを刺されました。
もうひとりは谷に入り、
この大岩の陰に隠れました。

オランダ軍は、
川の上流から一隊、
上流のジャングルに一隊、
川下に一隊の合計3隊が、3方向から捜索をしました。
しかし、彼は見つかりませんでした。
見つかりませんでしたが、彼は出血多量でこの場所で息をひきとりました。
住民は、それを知っていたのですが、
勝手に処理をしてオランダ軍に睨まれても困るので、
三日経ってから、オランダ軍に「どうも日本兵が隠れているようだ」と密告しました。
この場所に来たオランダ兵は、すでに死んでいる日本兵を確認して、
死体をそのままにして、この地を去りました。

住民は、他の地で死亡した、もうひとりの日本兵と
この谷で死亡した日本兵の二人の死体をpelaga の地に運び、そこで埋葬しました。
その場所にお墓を建てたのは、独立戦争が終わり、随分と過ぎてからです。
英雄の墓として、村人で建てました。
...........
とのチョコドゥさんの話です。

写真上はお墓への案内図、写真中段はお墓の全景、
写真下は、お墓に彫られた日本兵の顔です。



 お墓の整備 (2014年11月のブログより)

インドネシア独立戦争を戦った残留日本兵のひとり、ワジャ。
ワジャの日本名はわからない。

彼は敵を深追いしすぎて、スパイに通報され、オランダ軍に虐殺された。
バリ人は彼の勇敢さを讃え、戦死した場所の近くに埋葬しお墓を建てた。

日本人の誰もが訪れることのなきお墓である。
草が茫々に生える中にあるワジャのお墓。
なんとかしたい。
私費での墓地の整備を申し出ていた。

申請してから3か月、何の返答もなかった。

それが、先ほど、
そう、今より一時間前だが、
地元民から「墓地の整備の認可がおりた」との報が入った。

おりしも明日は、ププタン・マルガラナの式典の日。
独立戦争での戦死者を追悼する日である。

1372
の慰霊碑のうち、ワジャの慰霊碑は、324番である。
その慰霊碑に「墓地の整備」を報告できるってことだ。

間に合った。
このタイミングでの、墓地整備の認可.....
大げさだが、運命的なものを感じている。

 2014年11月27日のブログより

 日本を捨て、インドネシアに味方し、
インドネシア独立戦争に参加して、バリ島で戦死した残留日本兵。
その中のひとりである、ワジャ。
戦死したのは、Badung州、Pelaga村の谷底。
地元民は彼を追悼するためのお墓を建てました。
写真の中央部分に薄く見える二つのコンクリート魂がそうです。
右のお墓がワジャ、日本名はわかっていません。
左のお墓はバリ人で、名前は、I Gusti Ruh Tilem(ワジャと時を同じくして戦死)。

 

写真で判るように、お墓は藪の中に埋もれています。
で、藪を取り払い、お墓の周囲を整地することの申請をしておりました。
そして、時間がかかりましたが、先日、許可の内定がありました。
整備を具体化するため、関係者が現地に集まりました。
申請者である私と通訳のエヴィさん、
直接に責任を統括する当地バンジャールの会長さん、
それに認可する権限を持つプラガ村の村長と副村長さん達です。

 

問題になったのは、いつ整備するか、という時期のことです。
お葬式を許される日でないと、お墓の整備をできないというのです。
その日は、1129日なんだそうです。
問題は、その日だけで工事を終わらせなければならないことです。
工事が一日で終わらないと、続きはまた他の日を探さなければならないそうです。
この理由、よくわかりません。
が、バリ島での習慣は、その地その地で異なるのです。
で、決定したのが、作業員を5人に増やし、
朝の6時から作業を始めて、その日に整備作業を終了させる、ということです。
全てを任せることで、ゴーサインを出しました。
ゴーサインとは、大げさですが、要は費用の全てを支払うという約束です。
11
29日の正午ごろ、工事の進展を見るために現地に来ることも約束しました。

 

任せたので、どんな風に整備されるのか、よーく判りません。
が、念願であったワジャのお墓を整備できることになって嬉しい限りです。
みなさん、ワジャのお墓の裏には、ジャパン(djepang)と刻印されております。
整備が終わったら、是非に当地を訪れて見ていただきたく思います。

 2014年11月30日のブログより

 

 
ワジャのお墓の整備状況を
見に行ってきました。

朝の5時から、
5人がかりで、
工事にかかったそうで、
右の写真が
私が訪れた12時の状態。

もう、完全に「お墓」が
丸見えになっていました。

お墓の右に見えるのは、
カミさん。

まだ、工事は途中です。
 

この日は、
村人のお葬式(ふたつ)が、ある日で、
お葬式中は、工事がストップするのです。

お葬式が終わったら、また工事再開するそうですが、
大体の整備状況が見え、発注者としては満足できる内容でした。

思ったよりも広い敷地でした。

 

工事の責任者である、
バンジャール会長とプラガ村の村長さん。

お墓のすぐ傍の道、
お葬式に集まる村人たち。

 

集まった村人に、ワジャのお墓の存在があらわになりました。
今後はワジャも寂しくないでしょう。 嬉しいことです。

 

  2014年12月10日のブログより

ワジャのお墓に行ってきました。
整備の完成を確認するためです。
入口にセメントが施され周囲の煉瓦も積みなおししてありました。
完成です。

 

あらためてお詣りしました。

 


ワジャは、日本人です。
地元の人もそれを知っています。
地元民はバリ人と分け隔てなくバリに尽くしてくれた英雄として敬ってきました。
日本人はそれを知らず、60余年の間、見捨ててきました。
ワジャのお墓は、今ここにあらわになりました。
沢山の日本人がここに訪れて欲しいものです。

そのルートですが、


デンパサールからCarang Sari の方に向かいます。
まっすぐ進むとPelagaの町に入ります。
pelaga
には、バリには珍しい長い橋があります。
最近のバリの若者のデートスポットです(脱線)。
その長い橋の手前のPelaga町内に三叉路があります。
その三叉路の100m手前(左側)に、次の写真のような小道があります。

 

村人は、墓場に行く道として、誰もが知ってる小道です。
学校の横の小道です。
車で入るとUターンが難しいので、歩いた方が良いと思います。
その小道を30m進むと左にワジャのお墓があります。
是非に行ってあげてください。