リ島の残留日本兵 
平良定三 高木米治 荒木武友 / 松井久年 ワジャ
堀内秀雄 大館 工藤 栄 美馬芳夫
工藤栄の慰霊碑建て直される (2014年7月26日)



(建て直しの経緯)

工藤栄は、1946年、オランダ軍によって殺されました。
それから10年後の1956年、当時の地元の首長であった、
ワヤン・ケペルグによって、慰霊碑が建てられました。
以後、慰霊碑は地元民によって護られてきましたが、
60
年も過ぎ、慰霊碑が少々崩れかかってきていました。
それを知った日本の親族が費用を負担し、造り直されました。
2014
726日、その新しい慰霊碑への入魂式が、
タンジュンブノアの地元民の手で行われました。
写真は、その時のものです。



じゃかるた新聞にも掲載される。


工 藤 栄 物 語

写真は、工藤栄氏。
今年7月26日、タンジュンブノアの
工藤栄の慰霊碑が建てなおされた。

工藤栄はインドネシア独立戦争を
どのように戦ったのか。
オランダ軍に殺されたことはわかっているが、
その時の状況はどうだったのだろうか。
それらについては、殆どわかっていない。

が、慰霊碑が建て直され、
衆人の知るところとなった今、
おまいりに訪れる人も現れるだろう。

であれば、
工藤栄のことを少しは知った上で、
おまいりしていただきたいものである。
以下の工藤栄物語は、
その一助になればという思いで書くものである。

今、私は、工藤家の方から頂いた家系図を見ている。
12
代に亘り137名の名前が書かれた膨大且つ整理された家系図である。
工藤栄は、工藤多一郎の9人の子供(54女)のうちの4番目(3男)として、
徳島の地で、大正2年(1913年)9 7日に誕生している。

工藤栄の長兄は、栄より8歳上の工藤勝である。
今、私の手元に、この長兄の工藤勝が書いた手紙の写しがある。
バリ島ブノアの地の村長にあてたものだ。
弟のことを思う兄の責任感が滲み出る文面である。
それに明治38年生まれというのに英語の書体がきれいである。
教養の高さを覗えるものである。
工藤栄の弟(4男)は、6歳下の工藤四郎である。

今、私の手元に、弟の工藤四郎が自主出版した、
「草むす屍」がある(右)。
本人のビルマでの戦争体験を記した、
180ページに及ぶ大作である。
これを頂いたとき私は一気に読んだ。
地名も日付も正確に記している。
一級の資料であることは確かだ。
これを書いた四郎氏、長兄と同じく、
教養の高さを覗えるものである。

私の手元には、
工藤栄氏本人が記したものは何もない。
が、こうした兄や弟と同じ屋根の下で育った、
工藤栄がどのようであったかは明白である。

工藤栄は、育ちよろしく明晰であったのだ。

そんな工藤栄が、
なぜに日本軍を離脱し、インドネシア独立戦争に加わったのか。
栄の甥の手塚徹氏が私に聞いた言葉が耳に残っている。

「栄叔父は、33歳という分別ある年齢であった」
「また、日本には妻子まであった」
「なのに、日本軍を離脱して、インドネシア独立戦争に参戦した」
「それほどまで思いつめる何があったのだろうか」

工藤栄は第3警備隊の陸警科の兵曹長であった。
科は違うが、同じく第3警備隊の水警科長だったのが、月森省三大尉である。
その月森氏は、終戦直後の第3警備隊の様子を次のように書いている。

「終戦」は、25歳以下の兵隊と30歳以上の兵隊に溝を作った。
25
歳以下の独身者にとっては、終戦即貧困であった。
が、30歳以上の妻帯者は、終戦即望郷であった。

現代社会にいる私でも、すぐに想像できる言葉である。
工藤栄は、後者の終戦即望郷のはずである。
家系にも恵まれ、望郷の心を阻むものは何もないはずだ。
なのに、日本軍離脱、すなわち自分を犠牲にする死の道を選んだ。

何故なのか、何がそれほど魂を揺さぶったのか。
工藤栄に寄り添うことで、それを探せたら嬉しい。


日本軍からの離隊理由

工藤栄は、日本に妻子がいた。
しかし、日本に帰らずインドネシア独立戦争に加担した。
勿論、死ぬこと覚悟の選択だ。
何故なのか。

が、工藤栄だけではない。
他にもそうだった人がいる。
土岐時治氏がそうであった。
ちょっと脱線して、土岐時治のことを書く。

土岐時治は石川県出身、
日本の敗戦時に二人の子供がありながら日本に帰らず、
死を覚悟して、インドネシア独立戦争に自分の身を投じた。

幸いに生き残り、
40
年ぶりに日本へ一時帰国することになった時である。

息子さんより
「親父は世間の恥さらしだ」
「その上、日本の子供にまで泥を塗るのか、帰って来るな!」
との手紙が届く。

土岐はカッとなって、その手紙を破り、燃やしてしまったが…..
その息子さんが周囲から説得された。

特に、妻から
40年余の念願であるお父さんの里帰りに反対する貴方は人の子でない」
「血も涙もない冷血漢だ」
と、食ってかかられたことで眼が覚めた。

土岐にあてて、
「お父さん、許してください」
「我々子供は万全の準備をして、お父さんをお迎えします」
との手紙を送った。
その手紙を受け取った土岐は、一晩中眠れずうれし泣きした。

そういう経緯を経て、成田空港に降り立った土岐…….
ここからは、土岐の証言をそのまま書こう。

「土岐さん! あそこに息子さんが迎えに来ておられます」と誰かが言った。
指差す方を見ると、大きな男がにっこりと笑っている。
私は歩をはこびつつ男の顔を凝視した。
42
年前の子供の面影が浮かんできた。
「あっ! 泰男だ!」
私は、トランクを投げ出し走り寄り、泰男の肩に抱きついた。
「許してくれ、逢いたかった」涙があとからあとから、とどめなく顔をぬらした。
その時、横から又抱きついて来た者があった。
「お父さん、雄司だ!」
親子3名、ただただ抱き合い声なく再会を確かめあった。
里帰りの前の一週間、私の里帰りを拒否したあの子供達が、
心から私を歓迎してくれた。
これで42年間、もやもやしていた心の陰が一掃された。


ここで、土岐の証言を終えるが、
土岐に関してもうひとつ話がある。

残留日本兵の取材を続けた長洋弘という写真家(文筆家)がいる。
長洋弘は僻地に生き残る残留日本兵をひとりひとり訪ね歩いている。
その際の面談記事だが、残留日本兵が話した言葉だけで綴っている。
その言葉の意味を説明したり感想を述べたりはしていないのだ。

感想を述べるには、
余りにも重すぎる取材だったのじゃないだろうか。
私は、そのように思えたのだが......
その長洋弘が、土岐の里帰りに同行したのだ。

その時彼は、奥様の墓に土下座する土岐の写真を撮っている。
題名が“妻に土下座したい”のその写真は、
観るものを圧倒するとの評価で、
その年(1995年)の林忠彦賞を受けている。

長洋弘は、その時の取材の様子を
「土岐さんは私の質問に、感情を抑えながら」
「時として耐えきれすに涙を流しながら半生を語ってくれた」
「私は土岐さんの深い悲しみに圧倒された」
と語っている。 
他では漏らさなかった感情をここでは吐いているのだ。

もうひとつ、話がある。
残留日本兵には、他人を寄せ付けない人も多くいる。
長洋弘がどんな僻地の残留日本兵にも会えたのには訳がある。

インドネシアの残留日本兵を一本にまとめあげた乙戸昇の存在である。
乙戸昇自身が残留日本兵である。
乙戸昇は、実直そのもの、且つ、思いやりの人である。
乙戸が同僚である残留日本兵に注ぐ思いやりは、芯が通っていた。
その思いやりは、乙戸の死の間際まで続けられた。
その乙戸を全ての残留日本兵が理解し敬愛していた。
その乙戸の紹介状を持って長洋弘が残留日本兵を訪ねるのである。
多くを語らずとも、取材の内容が見えようというものだ。

なぜに、ここで乙戸昇の話をするのか、
私のわがままな理由がある。
実は残留日本兵のことを調べだしてから、私は乙戸昇を尊敬するようになったのだ。
尊敬する人物をもういちどブログに書きたかったからだ。
乙戸昇から学んだこともここで発表させていただきたい。
それぞれが個人としての自負を持つ残留日本兵の固い心を解き、
スマトラ派とジャワ派に分かれた残留日本兵をひとつに結びつけた、
乙戸昇の思いやりに満ちた真心.........
曰く、
ほんものの思いやりは岩をも溶かし水と油をもくっつける
........
である。


工藤栄のことに話を戻したい。

私は、思う。
土岐時治の日本での家族との面会、
もし工藤栄が生きておれば、同じようだったように思うのだ。

そして、今、話に出てきた乙戸昇、土岐時治、それに工藤栄、
ばかりでない、残留日本兵全員に共通して言えることがある。


全員が「実直」であるということだ。


実直であるがゆえに、ウソをつくことが嫌いなのだ。
「独立させる」と約束したインドネシアを独立させずに、
ウソをついたままで日本に帰ってしまうことができなかった人々が、
残留日本兵として、望郷の念を捨ててインドネシアに残ったのだ。

残留日本兵が実直であった証拠を他の点からも語ってみたい。
残留日本兵から証言のあった、
残留理由を全部列挙すると次のとおりである。

全てあげると1〜9もあるが、
圧倒的に多いのが、最初にあげる独立支援のための積極残留である。
ほぼ9割に近いと言っても良いと思う。
残留日本兵の真情を貫くキーワードは実直さなのだ。

1、 捕虜となることを嫌い、
   それまで日本が約束していた独立支援のため積極的に残留した。
2、 敗戦による日本の将来に悲観または絶望。
3、 暮らしやすいインドネシアに第二の人生を期待。
4、 戦犯に問われることを恐れたり、などの生命にたいする不安。
5、 インドネシア側より残留の誘い。
6、 兵器をインドネシア側に渡した責任、その隊長と行動を共にした隊員。
7、 戦友と共に残留。
8、 拉致され、部隊復帰できず残留。
9、 日本の家庭の事情、現地の妻子のため、愛人関係、等々。


工藤栄もそうである。
最一番に掲げた離隊理由以外は見つからない。

が、もう少し理由を探りたい。
で、工藤栄にもっと寄り添って思いをはせてみる。
と、彼の場合あと少し加えるべく特殊性があったような気がするのだ。

次回は、そうしたことに思いをはせたい。

今回は、長くなりすぎた。
家の外は、明日のインドネシア独立記念日の準備で忙しく廻っている。
私の筆も忙しく廻ってしまった。


さて、

追加すべき工藤栄の日本軍離隊理由は、
工藤栄がオランダ軍に殺された時の状況に隠されている。

殺された状況を知っているのは、
3警備隊水警科長の月森省三大尉である。

月森省三は、昭和194月、第3警備隊の新任少尉としてバリ島に赴任した。
以後、ジャワ島への出向を命ぜられ、終戦はジャワ島のスラバヤで迎えた。
が、終戦処理のため再度バリ島への復帰を命ぜられ、バリ島に戻っている。

以下は、バリ島に戻った月森氏の記述である。

バリ島に復帰したが、もはや一年前の生彩はなかった。
かっての精兵も一介の市井人になって、
毛糸編みや漁具の手入れに時間を費やしていた。
号令一下、規律正しく行動する軍隊の規範はそこにはなかった。
軍規が根底から覆され、下克上の呈すらあった。
私は、兵員を県人別に分けた。
共通する郷土愛で団結を取り戻す為であった。
下克上はウソのように止み、団結を取り戻せた。
団結した兵員を使っての役目は、
バリ島ブノア港における進駐軍との渉外折衝であった。
渉外折衝と言えば聞こえはよいが、
内実は、日本軍をして進駐軍の貨物揚陸部隊を編成し、
進駐軍の要求に沿いながら使役を行うことであった。
要するに進駐軍(オランダ軍)の小間使いであった。
使役は厳しく、それは正しく戦争であった。

先ず最初にブノア港に来たのは、イギリスの巡洋艦であった。
私は、艦長室に呼ばれた。
バリ島の現状につき質問された。
態度は紳士的であった。
2
回目に来たのは、オランダの駆逐艦であった。
英国船と違い、最初から攻撃的な戦闘態度であった。
質問と言うより、取調べに近かった。

ある日、オランダ軍港湾司令官のウオルフ少佐に呼ばれた。
日本海軍の舟艇と兵員でサヌール沖からサヌール海岸に貨物を揚陸して欲しい。
との依頼であった。
使役には協力できるが、直接協力は捕虜のジュネーブ協定に違反する。
私は、同意しなかった。

が、その夜、オランダ軍は、私の知らないうちに、
日本海軍の舟艇と日本兵員を使い、貨物揚陸をさせたのである。
無理な揚陸作業だったので、
洋上で舟艇が転覆し、白石兵曹が事故死した。
オランダ軍の横暴さには腹が立った。
喪に服するという理由で、兵員に三日間の作業放棄をさせた。
オランダ軍から威嚇射撃を受けたが遂行した。

それから10日、その怒りもまだ覚めやらぬ頃であった。
デンパサール所属の工藤兵曹の遺体が、
全武装のオランダ兵によって運ばれて来たのだ。
検死のためということであった。
頚部を鈍器で半切断されていた。
我々の全く知らないうちにインドネシアとオランダの間に戦闘があったようだ。
工藤兵曹もまた白石兵曹と並べてブノア海岸に埋葬した。



この月森証言を読み取りながら、
工藤栄周辺の状況分析をしてみたい。
あくまでも想定として読んで欲しい。

デンパサール所属…….

同じ第3警備隊であっても科が違うと、どこでどのような任務を行っているか
行動が掴めないという意味の「デンパサール所属」の記述である。

それが証拠に、月森氏は昭和584月、
工藤栄の長兄の工藤勝宛の手紙に、次のように書いている。

実は、栄氏は私と同じ第3警備隊でありながら、
陸警隊(デンパサール市)に所属し、ブノア港より遠隔地であり、
お顔を覚えてはいましたが、お名前の方は知りませんでした。


ブノア海岸に埋めた……

月森氏が埋めたのは、タンジュンブノアである。
月森氏のブノア海岸の記述は、タンジュンブノアのことである。
月森氏は、タンジュンブノアを拠点にしていたのであろう。

全武装のオランダ兵に運び込まれた……

殺された場所の想定をしたい。
タンジュンブノアであれば、月森もわかるはずだ。
先の手紙にもブノア港より遠隔地と記述している。
とはいえ、運び込まれたのであるから、そんなに遠くではない。
殺された場所は、ジンバランかデンパサール空港近辺ではなかろうか。
検死だけであれば、月森を呼べば足りる。
何故に、全武装させた兵隊に月森のところまで運ばせてきたのか。
地元民への誇示と日本軍への見せしめであったのだろう。
もしかすると、頚部の殺傷を隠さずに行進したのではなかろうか。
タバナンの地で独立義勇軍に加わった日本人(曽根)を見せしめとして、
民衆の目前でトラックで引き回して殺したオランダ軍である。
その程度のことはやりかねない。

下克上の呈すらあった…

終戦直後の日本軍の混乱ぶりを書いている。
各自が勝手に行動し、誰がどこで何をしているか、
などの把握ができない状況であったのだろう。
工藤栄の行動を追うのは難しいということだ。

野辺の送りから10日もたたないうちに…

オランダ軍がブノア港に来たのは、1946222日である。
状況からして、工藤栄が殺されたのは19463月半ばと想定される。

頭部を鈍器で半切断されていた…

通常の戦闘ではなかったように思える。
寝込みを襲われたのでは、なかろうか。
であれば、オランダ軍に内通するスパイの存在が浮かび上がる。

インドネシアとオランダとの間で戦闘があったようだ…..

それを月森は、「我々が知らないうちに」と表現を加えている。
近くの月森も知らなかったということは、
隠れた地下組織で活動していた。
その組織は、できたばかりで、まだ小さかった。
ということだったのではなかろうか。

オランダは最初から攻撃的であった…

日本人のみならず、オランダ軍はバリ人にも攻撃的であった。
後々、工藤栄の慰霊碑を建てることになる、
ブノア村長のケペルグ氏もそのことを家族に語っている。
このオランダ軍の横暴さが
工藤栄をバリの民衆寄りに駆り立てた一因になった、
ということもあったのではなかろうか。


以上のことから、
私は工藤栄の日本軍離隊を少々特別に捉えている。


多くの残留日本兵は、
戦友と話し合った上で日本軍を離隊している。
しかし、工藤栄の場合は相談すべき戦友が近くにいなかった。
自分ひとりの決断で、抗オランダ地下組織に入った。
また工藤の居たデンパサール(バドゥン)は、
その後も抗オランダ意識が育たなかった土地である。
後々もそうなのだから、当時は勿論に、
ほんに少人数の小さな地下組織だったに違いない。
そうした処に身を預けるという、
心もとなさを独りで吹っ切り、独りで身を投じたのだ。
他の残留日本兵以上に、
迷い苦しんだ末の決断であり、覚悟であったに違いない。


状況分析をまとめたい。


工藤栄は、芽生え始めた独立の気運に呼応し、
誰に相談するでもなく単独で日本軍を離隊し、
独立義勇軍の小さな地下組織に加わった矢先に、
スパイに通報され、寝込みを襲われ、
拳銃の音をさせるのもはばかれる状況下、
銃剣で首を突かれた。

死を覚悟しての決断であったにしても余りにもその死が早かった。
悔しかったことだろう。
工藤栄の無念が思いやられてならない。

が、救いがある。
タンジュンブノアの地に慰霊碑が建てられ、
地元民から神として崇められている。
今日も地元民のおまいりが続いている。
天におわす工藤栄もそれを知っているに違いない。

次は、この慰霊碑建立に至る経緯を書きたい。

慰霊碑建立

工藤栄の慰霊碑建立を書く前に断わっておきたいことがあります。
慰霊碑という言葉の使い方です。

日本人は、外国のモノに勝手に日本語をあてはめることが多くあります。
外来のモノには、発音のままカタカナで書くというルールがあるのに、
できるだけ漢字をあてはめる「癖」があるからです。
「癖」と、書くとおかしいですね。
となると、今も漢字のみを使っている台湾人は、
みんな「くせ者」になってしまいます(笑)。
(註:中国は変化させすぎて今や漢字ではない)
ただ、台湾人は漢字を見て、
意味から来ている漢字か読み方から来ているかの違いを
即座にかぎ分けることができます。
が、日本人は、漢字を意味からしか捉えません。

漢字は便利です。
漢字で書くと、その意味がひとことで伝わるからです。
が、そのために誤解を招いてしまうことがあります。
そして、それに気付かない、というよりも気付こうとしません。
大げさですが、それが現在の日本における漢字表現の扱いです。

独立戦争で戦死した兵士を奉るマルガラナのプリンゲ群があります。
が、それを「英雄墓地」あるいは「墓苑」と訳しています。
ウィキペディアにも「マルガラナの英雄墓地」と書かれています。
いわば、その呼称が定着しています。
明らかに間違いです。

戦死者の名前が彫られた1372基のうちの一基々々、
あれはプリンゲであって、お墓ではありません。
バリヒンドゥー教には、原則的にお墓がないのです。
お墓ではないので、最近は慰霊碑と呼ばれることが多いように思います。
お墓という呼び方よりも、プリンゲに近く、現状にマッチしています。
とはいいながらも、やはり慰霊碑は慰霊碑であってプリンゲではありません。

同じ間違いだが、もっと根本的な間違いもあります。
バリ島の「プラ」を「寺」と訳していることです。
バリ島の「プラ」は、「寺」ではなく、強いて言えば「神社」の方が近いのです。
だれもがそれを指摘しません。
とはいいながらも、神社は神社であって、やはり「プラ」ではありません。

こうした日本語の表現の仕方だけではありません。
さらにさらに根深い間違いがあります。
日本人の認識する「仏教」と「ヒンドゥー教」のことです。

仏教もヒンドゥー教もインドのバラモン教を起源としています。
分かれて別々のものになった時点で、似て非なるものです。
人間観の捉え方が違うので似て非なるものなのです。
さらに仏教は、中国を経るうちに儒教の考え方が加わり日本に伝わりました。
先祖崇拝の考え方は仏教にはありません。
が、中国の儒教の先祖崇拝が加わったのです。
さらに、似て非なるものになったのです。
日本の仏教は、お釈迦さまの仏教からも遠く離れたのです。
さらにさらなること、みなさんもお気づきと思いますが、
今、お寺さん(お坊さん)は、仏教の教えを民に伝える役目が薄れています。
これは、江戸時代に檀家制度ができてからです。
教えを説いて、人々から崇められなくとも、
檀家により守られるので、生計が成り立つからです。
葬式仏教であれば、やってゆけるようになったのです。
葬式仏教…..いやな言葉ですが、この言葉も今や定着しております。
スミマセン….過度に言い切ったりして…..
日本の仏教をけなすつもりは、毛頭ありません。
私も、どっちかといえば、仏教徒です。
現状をそのまま、正直に書いているだけです。

そして方や、バリヒンドゥー教ですが、
こちらも、遠く離れたバリ島に伝道されるうちに、
土着の信仰と融合され、本来のヒンドゥー教から離れたものになりました。
バリヒンドゥー教については、
私が「バリ島の世界遺産」のところで書いた、
トリヒタカラナ……の記述を読めばお判りいただけると思うので、
ここでは多くを書きません。
というより、書くほどのことを知りません。
バリヒンドゥー教にも、お墓=クブラン、というものがあります。
が、日本の現在の「葬式仏教」における「お墓」とは、一致しません。

さて、こういう一致しない宗教観が根底にあります。
それをひとつの意味の漢字を用いて語ることは不可能なのです。

分かっていただけますか?
ですが、私は、バリ島のバリヒンドゥー教に護られる日本のモノに
「お墓」という言葉を使い、「慰霊碑」と言う言葉を使ってきました。
今回も使うし、今後も使い続けることにします。
というのは、まず、日本人にバリのことを知って欲しいからです。

知ってもらうことが先決なのです。
そのあとで認識の違いを修正すれば良いのです。
曰く、地元民のプリンゲ(ここでいう慰霊碑)への祈りと
日本人の慰霊碑への祈りが別であること、の修正です。

この修正ですが、日本人への慰霊碑への祈りを超えたところに、
地元民の祈りがある、ということで理解すれば良いかと思います。
バリヒンドゥー教には、独特の宇宙観があります。
その宇宙観から見れば、他の宗教での祈りなど全て吸収できるのです。

(ひとりごと)

難しいことを書きました。
書くことがためらわれたのですが、
間違ったままで理解されるのが嫌で書いてしまいました。
これから書き始める、工藤栄の慰霊碑建立の経緯の話し…….
読者にヘンに混同されないことを祈るのみです。
いいんや、混同されてもいいんです。
それをひっくるめて許されるのが、バリヒンドゥーなのです。

さて、

海で事故死した白石勉海軍二等兵曹、
オランダ軍に殺された工藤栄兵曹長、
の二人は、月森省三氏によって、
タンジュンブノアの地に埋葬された。

月森は、昭和584月の工藤の兄の工藤勝宛の
手紙の中で「荼毘用資材の軽油・薪が手に入らず止むなく埋葬した」
と、その時のことを記している。
月森が埋葬した頃のブノア村の村長は、ワヤン・ケペルグであった。
ワヤン・ケペルグもその埋葬を知っていた。

埋葬したのは、1946年。
それから36年後、1982年のことである。

月森は、妻・兄・母を立て続けに失った。
さらに友人達の悲報が相続いた。
そうした人の死に接し、バリ島に埋葬したままの二人が気になりだした。
あのままにしては、死んでも死に切れない。
との切実感を持って、バリ島を訪ねることになった。
目的は遺骨の収集であった。
そして、村長だったワヤン・ケペルグと再会する。
次の写真がその時のもの。

左端がワヤン・ケペルグ、右から二人目が月森省三である。
月森氏の証言録は、この再会の直前から始める。

(月森証言)

既知の高校校長のクツト・コチ氏に案内され、
かっての埋葬の場所を訪れた。
なんと、その場所には2メートルはある石塔が建っていた。
これはどうしたものだろう。
手前勝手な推測をしてもはじまらない。
とにもかくにも昔の村長に聞くのが先決だ。
と、36年前に村長であったワヤン・ケペルグ宅に出向いた。
「村長は在宅ですか」見なれぬ訪問者に戸惑いの様子で主婦は奥に消えた。
しばらくして村長が奥から出てきた。
これはどうだ、36年前の村長だ。
あの当時、45歳ぐらいであったから、今は80歳を超えているのだろう。
早熟早老の南島人としては驚くべき長命だ。
訝しげに訪問者を眺める村長の眼差しが私に近づくにつれ、
まん丸になるのが分かる。
「おお、トアン(旦那)」「おお、トアン」と、
同じ言葉を何度も繰り返しながら私の手をぐっと握り締めて、
小刻みに打ち震えながらあとの句が出ないのだ。
「村長、貴方も元気で何よりです」
「貴方が元気なおかげで再会できました」
まんまるな眼がしばたいたと思うと彼の目からはらはらと涙がこぼれた。
離日前に対日感情を危惧した私の打算が全く恥ずかしい。
村長は全身からほとばしる親愛の情を私に向けてくれたのだ。

村長の家族全員が集った席で私は言った。
「村長、私がブノアに来たのは、昔、日本兵士を海岸に埋葬したためだ」
「知っている」と、村長はうなずいた。
「ところがその場所に石塔が立っているが誰が建てたのか」と聞くと、
「私は現在村長を止めている」
「あの石塔は、私の長男が15年前に建てたものだ」

(註)私(ブログ筆者)が見た石塔には建造日を1956年と刻んであった。
   村長の言うとおりだと、石塔の建造日は1967年になる。
   10年の開きがあるが、今になってはどちらが正しいか、
   確かめようがない。

村長の長男が石塔建造の説明を始めた。
「あの場所には精霊が飛び交って何人もの村人が突発的な事故で怪我をした」
「私も倒れるはずのない丈夫な椰子の木の下敷きになった」
「もう少しで死ぬところであった」
「それで、あそこに石塔を建てた」
「以後、精霊を和めるため、年2回のお祭りをしています」

私は長男にもういちど聞いてみた。
「あの石塔の下には日本兵が埋葬されているのを知っていますか」
「知っている」
「そうすると、石塔の上空を飛ぶ精霊というのは日本兵士の魂だったのでは」
「貴方がそう思うのなら、それでよろしい」
この通訳にはびっくりした。
通訳をしているコチさんに聞いてみた。
「コチさん、それでよろしいとは、そのとおりだということですか」
「違います、 そうではありません」
「貴方がそう思うなら、その貴方の思いを尊重するという意味です」
まだよくわからない。
私は、質問の先を長男から通訳のコチさんに変え、再度聞いた。
「ということは、この石塔は、下に眠っている日本兵の墓ということですか」
コチさんと長男の間でバリ語の会話が交わされたあと、長男から返答があった。
「あなたがそう思うなら、それでよろしい」
と、またもや、それでよろしい、だ。
私の思考は混乱した。

(中略)

石塔周辺は有棘潅木がいっぱいあり荒れていた。
石塔周辺を整備すべく、その認可を得るための申請をしていた。
が、なかなか認可がおりない。
よくよく聞くと、認可が下りるには6ヶ月はかかるだろうとのことであった。
遺骨の収集は、無理であることが分かった今、
せめて石塔周辺の整備をして日本に帰りたい。
バリ島の島民の民情にすがるしかない。
私は、ワヤン・ケペルグ氏に申し出てみた。
同時に、その場に平良定三氏がいたので、交渉を頼んだ。
平良氏は、独立戦争を生き残りそのままバリに住んだ唯一の残留日本兵である。
二人の話し合いが始まった。
バリ語での話し合いで、私にはチンプンカンで何がなんだか全く分からない。
折からの通行人、学校帰りの学童達が物見高に集ってくる。
そのうちに村人達もやってきて30人ぐらいの群集になった。
突然に、平良氏の「パーラワン・ムルデカ」の声高な言葉があった。
多分、この墓の主は日本兵ではなく、独立戦争の英雄なんですよ、
と説明したのだろう。

途端に先ほどまでのガヤガヤから
有志4〜5人のヒソヒソ評定に変った。
30分ぐらいして、
でっぷり太った長老が平良氏に二言三言告げた。
平良氏は、私のところに来て、
「目をつぶると言っていますよ」と教えてくれた。
バリ語にも「目をつぶる」
との意思の表し方があるとは….
いずれにしても嬉しいことである。
遺骨を持って帰ることができない今、
なんとか石塔の周辺の整備だけでも
したいと思っていたがその願いが叶う。
かくて整備を終えた離島前の11月29日、
ささやかながら、村長一家とともに、
落慶法要を営むことができた。
遺骨も持って帰れず、
石塔も荒れたままでは、
泣き面に蜂で、日本に帰らなければ、
ならなかっただろう。
平良氏の尽力で、石塔の清掃と
周辺の整備ができた。
ありがたいことである。

さて、月森証言はここで終える。
月森氏は遺骨を収集できなかった理由を書いていない。
プリンゲを建て、神として崇めているものを掘り返して、
遺骨を収集することは、バリヒンドゥーでは考えられないことである。
月森氏がそれを理解できず、苦悩したのは、
遺骨や、それを納めるお墓を特別扱いする、日本の葬式仏教と、
お墓の概念が薄いバリヒンドゥー教の違いが埋まらなかったためであろう。
バリヒンドゥーの教義には100%がない。
混沌さもそのまま認めている。
理解されないのも無理がないことと思われる。


さて、月森は、
目的とした遺骨の収集が叶わなかった。
叶わなかった理由は書いたが、
それはそれとして、石塔の下に今も遺骨があるかどうか、に書き及びたい。
バリヒンドゥーでは、人は死んでも、それは身体だけが死ぬのであって、
土葬にしている間、魂は死なないと捉えている。
火葬してその灰を海や川(川もいずれ海につながる)に流して、
はじめて祖霊(神)になるのである。

埋葬の地の上に飛び交う霊を治めて祖霊(神)にしたということは、
火葬を経なければ適わないことである。

この火葬の仕方だが、きちんと火葬する地方と、
形式的に火葬をする地方があって、同じバリにあっても一概に言えない。
例えば、埋葬した土地の上にある枯葉を摘んで、
その枯葉の上に埋葬地表面の砂をちょっとだけ載せて、
それを燃やすだけで、火葬に代える風習のところもある。

いずれにしても「骨」というものは、日本ほど重要ではない。
インドはヒンドゥー教であるが、ガンジス川に死体が流れている。
魂が抜けた抜け殻には、価値がないからである。
インドヒンドゥーの流れをくむ、バリヒンドゥー、
同じではないが、それに近い扱い方がされて当然なのであろう。

ということで、実状はさることながら、
バリ人の認識では、その場所にプリンゲ(神が存在する祈祷場=慰霊碑)が
作られた時点で、その場所には「骨」がないのである。
よって、日本人が「骨があるから掘らせて欲しい」という話しは、
通じないし、バリ人に対して失礼な申し込みになるのである。

さて、昨日のつづきに話を戻す。

平良定三は、村人に石塔を「独立戦争の英雄」と明言した。
村人もそれを認めた。
「石塔」が「慰霊碑」に変った瞬間である。
以後このブログでも、「慰霊碑」と明言して書き進むこととする。

その慰霊碑が村人にどのように扱われてきたのだろうか。
話しは、32年後の2014年(今年)の4月に一挙に飛ぶ。

今年の4月、私のブログに工藤栄のご親族から書き込みがあった。
工藤栄について知っているかどうかの問い合わせであった。
私が知っている範囲でお答えした。
折り返しメールがあり、月森省三氏が訪バリした頃の写真が添えられていた。

月森氏は訪バリ後、数年してこの世を去っている。
同じ頃、月森氏と連絡をとりあっていた、栄の兄の工藤勝も世を去った。
工藤栄を知る二人がいなくなって、慰霊碑のことも探せなくなっていたのだ。
それをどうしても探し出したいと、ご親族の方が動き出したのだった。

私は、ご親族から送られてきた写真を持って、
タンジュンブノアの地の慰霊碑を探した。
5軒ほどの聞き込みで、意外と簡単に慰霊碑を見つけた(写真下)。


慰霊碑の前には、何軒かのお土産屋があった。
あとで知ったことだが、
月森が来てから暫らくして、タンジュンブノアの地の大開発があった。
観光目的に海岸全体が整備されたのである。
工藤栄の慰霊碑は、整備範囲の最北端の地にあった。
慰霊碑の周囲にもいろいろな店が進出してきた、のだそうな。

そうした店のひとつ、
お土産店を経営しているのが、
右の写真のイブ・マデである。
慰霊碑を発見した時の私に、
彼女は次のように語ってくれた。

幽霊が出るということで、
慰霊碑が建てられたことは知っている。
祀られているのは、
日本兵ということも知っている。
私たちがこの地に店を出す前から、
慰霊碑があったのだから、
真先にこの地に住んだ神様として崇めてきた。

この地に来てから30年ほどになるが、
お供えを欠かした日がない。

ありがたいことである。
私は、慰霊碑発見とこのイブ・マデの話を工藤氏のご親族に連絡した。

さて、発見した慰霊碑だが、背の低い慰霊碑であった。
バリヒンドゥーでは、神は自分よりも高いところにいる。
バリヒンドゥーは、極端に思えるほど高さにこだわる。
それからすると、異常な低さであった。
月森氏が書いているように、昔は2メートルの高さがあった。
それが、私が発見したとき(写真上)は、
横に立つカミさんの身長と同じまでに低くなっていた。
開発の際に盛り土され慰霊碑が地面に埋もれたのである。

自分だけでも建て直したい。
でも、できたらご親族の方に建て直してもらいたい。
その方が、工藤栄が喜ぶことは明白だ。

私は、工藤栄のご親族に、
慰霊碑発見の知らせと同時に建て直しについてもお願いした。

慰霊碑の建替え

ご親族に慰霊碑の建替えをお願いする前に、
地元民の了解を取り付けていた。
地元民の了解なしでは前に進まないからだ。
その交渉の経緯を書く。
まずは、毎日お祈りしてくれている、
土産店のイブ・マデのグループに聞いた。
その聞き方だが、
建替えは地元民からの依頼が、事の始まりにしたかったので、
「建替えをどう思いますか」との簡単な問い方をした。
と、皆が声をそろえて、
「是非に建替えて欲しい」と言う。
自発的な意見に近い勢いの返答であった。

その意見を携えて、
元村長さんのワヤン・ケペルグさんのご子息に逢いに行った。
ケペルグさんの三男、ニョマン・ダミさんがご健在であった。
ダミさんは、相談のため甥達(ケペルグさんの孫)を集めてくれた(写真下)。


私は、「現場の村人が望んでいる」ことの状況説明をし、
「みなさんも協力していただけますか」と付け加えた。
ケペルグ一家の応えは、
「お爺さんが作ったものだから、一族が協力して当然」であった。
現場からの依頼があり、それに責任者が同意する、
といった形でバリ側の対応が一致したのである。

あとは日本側である。
そのための日本への依頼である、工藤栄のご親族へのお願いメールには、
私は、こうした村人の動向も付記してお知らせした。
ご親族からは、すぐに、
慰霊碑建替えの了解と費用の全てを負担するとの返答があった。
以上、手短に書いたが実際も手短であった(笑)。
5
月に慰霊碑建替えの話しが出て、5月中に全てが決定された。
毎日お祈りする現場の地元民.....
地元民に信頼される長のみなさん.....
それに日本のご親族…….と、
三者が心をひとつにしての特急決定であった。

建替えのための慰霊碑取り壊しセレモニーの日も、614日と決まった。
ということで、614日、
工藤家のご親族、5名のご参列を得て、慰霊碑の取り壊しセレモニーが行われた。



つづく、726日、既にブログに書いたが、新しく慰霊碑が建ち、入魂式が行われた。

さて、こんな経緯で建替えられた慰霊碑、
締めくくりとして、この新しい慰霊碑の意義を考えて、
工藤栄物語を終ることにしたい。

まずは工藤栄のご親族が示された二つの心遣いから話しに入りたい。
ご親族は、取り壊しセレモニーの日、
毎日お祈りしてきたイブ・マデのグループへ過分の礼金を準備していた。
マデ達は、あたりまえのことをしただけ、と受け取りを渋ったが、
結局は受けてくれた。
バリ人にとっては、お祈りしてきたことに感謝されるのは異例のことである。
今後の毎日のお祈りのごとに、
神と崇める親族より感謝があったことを思い出すに違いない。
同時に日本とバリの関係にも思いを馳せるに違いない。

工藤家ご親族からのもうひとつの心遣いだが、
取り壊しセレモニーに訪バリされた時、「白石家のことが気がかりです」
と、私に話しかけてきた。
白石家とは、工藤栄と一緒に埋められた白石勉氏のご親族のことである。
工藤家ばかりで建替えを進めて白石家をないがしろにしているようで、
申し訳ないと思ったのだろう。
その時の私は、白石勉がどのような経緯で埋められたかは知らなかった。
で、私は、その気配りに応えることができず無言でやりすごした。

過去の経緯が判明し、慰霊碑建替えの全てが終った今、
工藤栄のご親族のこの白石家へのお気遣いに関連して言いたい。
バリ人が石塔を建てた時、
工藤と白石の両名とも「神」になったのである。
ふたつひっくるめて、ひとつの神としてバリ人に崇拝されているのだ。
これがバリ人の理解である。
一方、日本人は、埋められたひとりひとりを別に捉えるので複雑である。
が、月森省三は白石勉の死に対し、次のように書いている。

(月森省三曰く)

後で知ったことだが、
オランダ軍にこき使われてブノア桟橋に荷揚げした弾薬や食料が、
独立戦争を行うバリ軍との戦闘に使われることになった。 
独立戦争を傍観していたというのならまだしも、
バリ軍兵士の死への誘いに手を貸していたとは、
何とも恥知らずであった。
白石兵曹が水難死した時、
オランダ指揮官ウオルフ少佐は何を考えていたのか?
荒天の中、日本の舟艇と日本兵を勝手に使って揚陸作業をやろうとしたのは、
ブノア桟橋に陸揚げできない重量物であったに違いない。 
戦車とか重砲だ。 
自動車道路の周囲は全て水田か椰子林というバリ島の地形で、
トラック群の先導をする戦車そしてそれを後方から援護する銃砲陣地.....
考えただけでもゾッとする。
もし、それが現実となったらバリ軍の悪戦苦闘は必死だ。 
すると、白石兵曹は一死をもって、
オランダ軍の戦車、重砲などの揚陸を阻止したわけだ。


ということで、
月森氏は、白石兵曹の死もインドネシア独立に一役かったとしている。
工藤栄も白石勉も同じ第三警備隊であった。
顔見知りの戦友であったのだ。
同じ地に埋葬され、同じ日に神になり、
今は二人が肩を組みながら、天におわすに違いない。

工藤家ご親族は、白石勉のご親族がこの新しくなった慰霊碑を
白石勉の祖霊が宿るものとして祈ることを大いに喜ばれることであろう。
白石家を気遣いしての言及がそれを示している。

また、この慰霊碑を訪れる、工藤・白石家と関係がない日本人には、
肩を組んでいる二人の日本兵を想いお祈りしていただきたいものである。

バリ人は、そうした日本人の祈りを理解してくれる。
それが約束されているのが、この慰霊碑だ。

入魂式の際の入魂の儀を全て終えた時であった。
バリヒンドゥーのお坊様が言った。
「今後は各自の宗教で自由にお祈りください」
自分の思いで勝手にお祈りしても許される特別な慰霊碑なのだ。
工藤家のご親族の特別なお気遣いで、それが実現した。

この慰霊碑を介し、
バリ人と日本人の心が解け合うことになれば、
工藤栄、白石勉、両氏の本望である。
お二人も大いに喜んでくれることだろう。