荒木武友 ・ 松井久年 |
Penarungan 村の記録 |
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右の本は、
プナルンガン村の村役場の方から
渡されたもの。
独立戦争の時の村の記録です。
村の人から頼まれた、
この本の翻訳という.....
出発点にようやく戻ってきました。
毎年11月の村の慰霊祭には、
松井と荒木のご親族の方が
村に来られるそうです。
その際に、
日本語に訳したものをお渡ししたい、
とのプナルンガン村のご意向でした。
昨年の11月には、間に合いませんでした。
今年になって、ようやくです。
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本を要約する前に、
ひとつだけ強調しておきたいことがあります。
この本の記録は、
独立戦争を村がどう戦ってきたかということを書いてありますが、
その書き出しが、1943年なのです。
1943年といえば、日本軍が統治をはじめて間もない頃です。
書き出しの数ページは、
日本軍の強引さに反発するために群発した、
村の周辺の地下組織について延々と書かれております。
地下組織はオランダに対してではなかったのです。
日本軍に対してだったのです。
残念ながら、それだけ日本軍がうらまれていたということです。
その日本軍が敗戦により、
オランダ軍が帰ってくることになりました。
日本軍に反抗する為に起きた地下組織が、
そのままオランダ軍と戦う地下組織となったのです。
日本統治時代の松井と荒木は、
どちらも海軍の特警隊でした。
特警隊は陸軍では憲兵隊にあたります。
日本に反発するものを激しく取り締まったものと思われます。
残留日本兵生き残りの平良定三氏は、
当時すでに松井と認識がありました。
その平良氏が次のように語っております。
独立軍に入った松井は、前にいじめた村の青年に、
昔のことを「どうもすまなかった」と、謝ったようです。
そうしたところ、村の青年達は、
それは過ぎたことだ。貴方は独立軍に入って私たちを援助してくれている。
前のことは忘れて、これから一緒に戦いましょう。
と、言われたということです。
まあ、そういう訳で、
これまでも何度も書いてきましたが、
日本軍全体(ということは=日本)としては、うらまれていたのです。
そういう感情を少しでもやわらげてくれたのが残留日本兵でした。
さて、本の要約です。
(本の要約)
オランダが追い出され、今度は日本軍の植民地となった。
日本は残酷であった。
それがためにバリ人は、1943年頃、
日本に隠れて日本軍に反抗するため、
マデ・ウィジャクスマ達が先頭にたって、
地下組織を作り始めた。
その2年後、日本が連合国に負けた。
インドネシアは独立を宣言した。
インドネシア共和国の青年による国民安全軍である、
TKI−PRIが設立された。
日本の敗戦の4ヵ月後の1945年12月13日、
プナルンガン村では、このTKR−PRIの下で、
バハにいる日本軍隊を攻める計画をたてた。
バリ人は、十分に銃を持たず、竹やりや山刀しか持っていなかった。
しかし勇気は持っていた。
戦いの目的は日本軍の武器を奪うためである。
が、夜の10時に日本軍隊を攻める計画が、
先にばれてしまい成功しなかった。
1946年1月12日、
プナルンガン村に新たな組織、W基地が設立された。
そのW基地の指示により、
当時クリーニング屋をしていたスランド氏の下に若者が集結した。
スランド氏と若者たちは、鳥や果物を売っている商売人の装いをして、
日本の軍人を騙して、ひとつの銃と一本の日本刀を奪うことに成功した。
奪うと彼らはすぐに逃げた。
それを「バハ(村の名前)」の人々が助けたので、
彼らはW基地まで無事に逃げ切ることができた。
日本の軍人は必死に彼等を探した。
タンクまで使って巡検した。
プナルンガンの村の人達 も疑われ、家の中までチェックされた。
が、彼らを探すことができなかった。
1945年2月20日の朝、プナルンガンの村人が、
銃を持ってうろうろしている二人の日本軍人を見かけた。
この情報は村人からすぐにグスティ・マンク・プセに伝えられた。
伝えを聞いたグスティ は、組織上の上役のパ・リクスに伝えた。
パ・リクスは、その二人の日本軍人を捕まえるようにとグスティに命令した。
さらに生きたままで捕まえて、銃を奪うようにとも付け加えた。
命令を受けたグスティ 達が現場に戻ると、
その二人の日本軍人は、
田んぼの中にある小さな小屋の中に入って座っていた。
銃は彼らの直ぐ横の壁に立てかけられていた。
グスティは、やさしく話しかけた。
「喉がかわいたでしょう、蜜柑をたべませんか」
二人は両方の手を使って蜜柑を受け取った。
手が空いたことがチャンスであった。
その瞬間、グスティ達は、立てかけてあった銃を奪った。
グスティ 達は二人を捕らえて、パ・りクス のところに運んだ。
パ・リクスが二人に事情を聞くと、
インドネシア軍に入ってオランダと戦いたいとうことであった。
二人は、日本名、松井武友と荒木久年であった。
松井には、ワヤン・スクラ というバリ人の名前がつけられた。
バリ語では金曜日をスクラ というが、その日が金曜日だったからである。
荒木には、マデ・スクリ というバリ人名がつけられた。
松井は1915年生まれで、日本ですでに結婚しているということであった。
荒木は、1920年生まれで、結婚をしていないということであった。
しばらくして、松井と荒木はすぐに村人に溶け込み仲良くなった。
積極的にインドネシア語とバリ語を勉強した。
松井と荒木は、1946年3月、
プナルンガン村の村民になりたいと言い出した。
であれば、ということで村民のリーダーは、
松井と荒木に日本軍に手紙を書くことを要求した。
我々と一緒にインドネシア軍に味方した行動をとろう、
との呼びかけの手紙である。
呼びかけは不成功に終ったが、それでもその呼びかけをきっかけに、
「機銃」を手に入れることに成功した。
プナルンガンの村人は、彼等二人を受け入れることに賛成であったが、
W基地のリーダはまだまだ不安であった。
二人が本当にインドネシア側で戦う気があるかどうか試すことを考えた。
1946年3月3日、W基地のリーダーは、
松井と荒木に、「ツカ」にあるNICAを攻めるようにと命令した。
松井と荒木は、次の14人の軍人(村人)と一緒に「ツカ」に出撃した。
1. I Made Mardia, sebagai pimpinan Komando,
2. I Made Gendera,
3. I Gst. Ag. Rai Budhita
4. IMadeJojol
5. IMadeGdeKardi
6. 1 Wayan Mudera
7. Sdr. Tohir
8. Sdr. Supangkat
9. I Wayan Regug
10. Ida Nyoman Rai
11. I Nyoman Jegeg
12. IMadeKat
13. Ida KetutRai
14. I Gst. Ag. Kt. Tantra
13時に現場に着いた。
松井と荒木の指示で、Nica のトラックを目指して突撃した。
トラックには銃が積んであり、それを奪うためである。
しかし、その突撃は成功しなかった。
手持ちの武器が不十分であったからだ。
しかし、この戦いで荒木と松井のインドネシア軍としての気持は、
本物であると理解された。
その後、地元の軍人たちの訓練を松井と荒木に任せることになった。
そのトレーニングには、W基地の者だけでなく、
新しく組織化された、WXVIのリーダー達も参加した。
1946年11月20日、
マルガにて、グラライ の軍とオランダ軍の戦闘があった。
ププタン・マルガラナ戦闘である。
グラライの軍は96名であった。
その中に荒木と松井もいた。
オランダ軍は降伏を勧告してきた。
グラライ は、「自由か死か」の二つしかないとの返答をし、
勧告を拒否し、果敢に戦い玉砕(ププタン)した。
荒木も松井も同様に玉砕した。
この戦争後、プナルンガン村はオランダ軍の統制下に入った。
オランダ軍への反抗を疑われた者は捕らえられ、ベ・アニに移された。
そういう訳で、プナルンガン村の戦いは終りそうにもなかった。
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松井・荒木の記念碑を訪ねる(乙戸昇) |
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1993年10月7日、乙戸昇は、
平良定三の案内で、バリ島のプナルガン村を訪れている。
(証言) 乙戸 昇
ジャカルタを発って、一時間半、グラライ空港に着いた。
デンパサールの平良定三氏宅を訪ねた。
「昨晩も倒れました」とのことであった。
高血圧であると共に貧血でもあるとの由。
恐縮する私に「私の身体は私が知っています。
ご案内できますから、ご心配しないでください」と案内してくれた。
ご子息の運転する車に乗って、北上、
中央山岳部に向かって一時間足らずで、プナルガン村に着きました。
その役場の狭い前庭に、
松井久年氏と荒木武友氏の記念碑が建てられていた。
その記念碑はバリ特有の多塔形をしており、
高さ約4メートル、各層共高くなるほど小さくなって突塔形を成している。
松井、荒木の両氏が特に記念碑まで建てられていることについて、
私は平良氏に尋ねてみた。
それは両氏が独立戦争を戦っていたとき、
「私たちが死んだら、ヒンドゥー教に則って祀ってもらいたい」
と村人に述べていた由である。
よって、独立達成後、周辺43ヶ村の住民が協議し、
前述のプナルンガンの役場前庭に建てられたとのことであった。
二人の日本人の記念碑としては、大変立派なものである。
更に両氏に関しては、別に両氏の霊を祀った寺院があるという。
プナルンガンに行く途中の村スピディから更に奥に入ったところで、
途中道路も狭いということで、訪問は断念せざるを得なかった。
いずれにしても、松井、荒木両氏は住民に尊敬され、
愛されていたとうことであろう。
1993年10月 乙戸 昇
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松井・荒木の記念碑 |
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プナルンガン村にある、
松井と荒木の記念碑。
まずは、全景。
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中央の標識に、
MUTSUISO
と書かれているのは、
松井であろう。
HARRAKI
と書かれているのは、
荒木であろう。
間違いない、この中に居る。 |
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写真はマデさん、
中を見たいというと、
鍵を持ってきてくれた。
マデさんが
ドアーを開けてくれた。 |
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中はこのようになっていた。
祭壇の両側に、
荒木と松井の写真が
飾られ、その両脇に、
荒木と松井に指導され、
オランダ軍と戦った、
村の約220名の兵士名が
書かれていた。
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左が荒木、右が松井である。
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取材には、クトゥに同行してもらった。
彼女がいなければ、マデさんには会えなかったであろう。
マデさんのお父さんも220名の一人、
しかも36名生き残ったうちの一人でした。
松井と荒木の指示を周囲に伝える伝令の役をしていたので、
全部を知っていたそうな。
お父さんがお亡くなりになったのは、5年前。
で、独立戦争の話、日本兵のこと、何度も聞かされたそうです。
良い人に会えました。
気にしていた、彼らの子孫がいるかどうか、ですが、
「彼らには、そんな時間がなかった」と、のこと。
不謹慎な質問でした。
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何故に松井・荒木両氏が神格化されたのか |
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バリ島でインドネシア独立戦争を戦った日本兵の数について、
生き残った平良定三氏は「30人はいた」という。
が、名前がわかり、存在が明確なのは、20名。
その20名の中で特に有名なのが、荒木武友と松井久年である。
バリ名で荒木武友をマデ・スクリ、松井久年をワヤン・スクラという。
マデ・スクリとワヤン・スクラは、
その功績をバリのテレビで放映されたこともある。
で、少し興味のあるバリ人は、みな二人を知っている。
私が残留日本兵を調べ出したのも、この二人の存在があったからだ。
他にも残留日本兵がいるのに、何故にこの二人がそれほどまでに有名なのか。
当初、私は、マルガラナでングラライ将軍と共に玉砕したからだ。
と捉えて、ブログでもそのように書いたことがある。
が、調べてゆくうちに、
マルガラナで玉砕した日本兵は松井・荒木だけではないことが判った。
彼らを後々まで語られるほどに有名にしたのは、それだけではなかったのだ。
さて、前書きが長くなったが、その理由がやっと判った。
堀内秀雄がその理由を語っているのだ。
堀内秀雄も残留日本兵として独立戦争を戦かった。
が、途中でオランダ軍に捕まり、日本に送還された。
松井・荒木と同時期にオランダ軍と戦っていたのだから、
松井・荒木の活躍を近い存在として把握できていた。
その彼が語る証言であり、これが全てであろうと思われる。
堀内秀雄証言:神格化された松井・荒木両兵曹
英蘭軍がバリ島に進駐してきて、間もなく、
まだ英蘭兵士のバリでの居心地が定かでないとき、
独立義勇軍がデンパサールの英蘭軍の兵舎に夜襲をかけたのです。
この戦闘を指導したのが松井・荒木の両氏だったのです。
戦いの銃声は、当時デンパサールにいた私も聞いております。
あの銃声からすると、義勇軍の兵力は300人はくだらないと思う。
また、2時間ぐらい銃声が続いていたので、
単なる示威とか牽制ではなく、本格的な夜襲だったと思う。
英蘭軍が進駐間もない虚をついた夜襲でした。
よくも気取られずに300人という大部隊がデンパサール市内に集結できたのか、
勿論、20〜30人の小部隊で
それぞれの村から別行動を起こしての結果でしょうから、
驚きました。
そのうえ、独立義勇軍は一兵の死傷者もなく撤収したというのですから、
夜襲は、余程の綿密な作戦と統制がなければ難しいのです。
ですから、夜襲は成功というべきでしょう。
その夜のデンパサールは初めて聞く銃声で大騒動でした。
翌日はパサールも開かれて平常どおりでした。
が、権力には無関心を装う昔からの生活習慣があるからです。
住民は腹の中でこみあげる嬉しさが渦を巻いていたものと思います。
300年にして初めて主権者に報えた一撃、
これが松井・荒木の両兵曹を有名にしたのだと思います。
こういう話もあります。
道路を行動中に戦闘機の機銃掃射を受け皆が田圃や溝に頭を突っ込んだ時、
松井兵曹は遮蔽のない並木の又に重機を懸けて応戦したというのです。
松井の掃射で戦闘機は白煙を噴いて山中に墜落しました。
直進してくる飛行機は当てる確率が高いとはいうものの豪胆無比ですね。
こういう快ニュースは、クチコミで、すぐにバリ全土に拡がります。
いつの間にか、松井・荒木が指導する戦闘は、
必ず勝つというジンクスが出来たのでしょう。
マルガ会戦で彼等は戦死しますが、
その前に松井・荒木の「神性」ができあがっていたのです。
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松井・荒木を祀る寺院を探すも探せず |
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バリ島の残留日本兵の調査について先のブログで、
プナルンガン村から日本軍の収容所があった、
「バハ」までは6キロほどである。
「バハ」に出向き、日本軍が収容されていた痕跡を調べたい。
プナルンガン村に行く途中のスンピ村から、
脇道に入りしばらく行ったところに松井と荒木を祀った寺院があるという。
車が入れないらしくバイクに乗って調べに行きたい。
ということを書いてきた。
で、昨日はその調査に行って来た。
その報告を書きたいが、
書けるまでのデータが得れず、
昨日でわかったことのみを
中間報告としてここに書く。
まず、はじめて読む人のために、
順序だてて説明してゆきたい。
私がバリの残留日本兵の松井と荒木に、
興味を持ったのは、
2005年2月18日の産経新聞の記事であった。
その記事は、バリ島の父として三浦襄のことを扱ったもので、その中に松井と荒木のことが書かれていたものであった。
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新聞には、慰霊塔の写真(右上)を載せ、
これは日本人兵士を祭るものであって、
その対象者は松井久年と荒木武友であると、書かれていた。
一方、バリ島の残留日本兵で最後まで生き残った平良定三氏が
同じ残留日本兵の乙戸昇氏がバリに来た時に、乙戸に次のとおりを語っていた。
プナルガンの記念碑とは別に、松井、荒木の両氏の霊を祀った寺院があり、それはプナルガンに行く途中の村、スンピディより更に奥に入ったところで途中の道路も狭い。
上記のゴシックで示した、二つの内容が、
どのように結びつくのかを知ることが今回の調査目的であった。
調査範囲は右図のとおりの、横幅5キロ、縦幅10キロの狭い範囲であったが、....頼りにしていた、プラナンガン村の知人がウバチャラ(寺のお祭り)で、時間がとれず、現地事情に疎い我々3人だけでの調査となった。
3人というのは、
私、カミさん、エビィさんの3人である。
エビィさんは、私の日本語私塾の生徒さんで、通訳として同行をお願いしたもの。
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最初に調査したのは、
冒頭にあげた「バハ」の日本軍が駐屯した痕跡であった。
モニュメントらしきものが確かに或る、との情報を得ての調査であった。
が、バハ村の通りを聞き込みながら、
車で走ったがそれらしきものを見つけれなかった。
65年前のこと、道で出会う多くの人が関心が薄く、
情報収集の難しさを知らされた。
だからこそ今の内に調べておかねばならない.。
再度調査に来ることを心に誓って、次の調査に向かった。
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次の調査とは、産経新聞に掲載された、日本兵士を祀る慰霊塔であった。
新聞の切抜きを拡大した写真を見せながら、ついに「それを知る人」を探し当てた。
が、概略の場所しか知らされなかった。
村から村へと尋ねながら、少しづつ目的に近づくしかなかった。
車がすれ違えない細い道路に入った。
その道路も草に覆われていて轍が残らない。
そんなところに、こんなのが建っていた。
とうとう見つけた!
写真は抜群の道案内をしてくれたエビィさん。
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実は彼女、バドゥン県の王様の姪御さんだ。
エビィさんのお父さんの兄が現在の王様なのだ。
バリ人にとっては、雲の上の人なのでしょうか、
そんなエビィさん、
途中で何人かの知り合いと会ったが、都度大切に扱われている様子で今回の調査には大いにプラスに作用した。
ただ、見つけたこの慰霊碑.....
日本兵士の慰霊碑ではなかった。
独立戦争で戦死したバドゥン県全域の兵士を慰霊したものであった。
で、地図にはバドゥン県廟と記した。
だから、グラライ将軍もここに記されている。
2005年の産経新聞の記述は間違いだったのだ。
(かどうかは、まだ調べないとわからない、1944年1月28日追加記述)
常時、真実のみを知りたいオレにとって此処に来れただけで成果があった。
当然に松井と荒木の名があるはず......と探すと、
123番:松井、124番:荒木の名が刻まれていた(下)。
今回の調査は、半分成功したが、未完である。
あるかも知れないスンピディ村付近の松井・荒木を祀る寺院を探せていない。
あるかも知れないバハ村の日本兵居住跡を探せていない。
さらに、ブラ・キウ付近に住んでいるはずの高木(残留日本兵)のお子さんを探せていない。
これらを次に期して、今日の中間報告を結ぶ。
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バリ人戦友が語る荒木武友(Made Sukeri) |
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日本名は荒木である。
彼はバハ駐留の日本陸軍の兵士であった。
当時、バハの日本軍はバリ島で最大の日本軍兵舎であった。
バリ軍にとっても日本軍の持つ武器をなんとしても奪いたく、
攻撃の主要なターゲットであった。
1945年12月13日、攻撃の計画を立てたが、
事前にばれて成功しなかった。
しかし、その報復の為、日本軍は村の若者を襲った。
若者達は遠くのクプグヌンガンまで逃げ込んだ。
1946年2月18日、オランダ軍がバリに上陸してきた。
日本軍は武装解除させられた。
その武装解除に反発して、バリ軍に加わることを決めたのが、
松井と荒木であった。
二人はプナルガン村のバリ軍に出向き、バリ軍への入隊が認められた。
彼は、インドネシア語とバリ語を一生懸命に勉強した。
その後、二人は、1946年4月11日のデンパサールの戦い、
そして、タバナンのムンドック・マランの戦い、タナアロンの戦い、
といろいろな戦いに参戦した。
そして、最後は1946年11月29日、マルガラナで戦死した。
彼の葬儀は遺言どおり、バリ形式で行われた。
Blumbunganヒーローズモニュメント国定公園に祀られている。
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(原文) |
I Made Sukeri dengan nama asli Haraki adalah bekas angkatan darat Jepang
yang bertugas di Baha, Badung. Kita telah sadar bersama bahwa di Alas Baha
merupakan tempat pangkalan militer Jepang terbesar di Bali. Boleh dikatakan
semua kekuatan Jepang berada di sana. sehingga pada tanggal 13 Desember
1945 yang merupakan sasaran utama dalam penyerangan serdadu Jepang itu
adalah Tangsi Jepang di Baha. Narnun penyerangan yang dilakukan secara
serentak oleh pemuda pejuang di Bali pada tanggal itu mengalami kegagalan,
karena rencana tersebut telah diketahui oleh Jepang sebelumnya. Tujuan
utama dari penyerangan itu untuk merebut senjata sebenarnya. Jadi bukan
untuk membunuh serdadu Jepang. Dengan gagalnya penyerangan itu, besoknya
serdadu Jepang melakukan pembalasan terhadap pemuda pejuang. Para pemuda
dikejar-kejar, sehingga banyak yang menyingkir kepegunungan.
Pada tanggal 18 Pebruari 1946 serdadu Netherlands Indies Civil Administration
(NICA) yang bertindak sebagai pembesar-pembesar AMACAB yaitu tentara pendudukan
serikat bagian Tata Usaha Sipil mendarat di Bali dalam rangka: (1) melucuti
senjata serdadu Jepang. (2) melepaskan dan mengurus tawanan perang dan
(3) menjaga keamanan dan ketentraman umum, khususnya di Bali. Dengan kedatangan
mereka tersebut, kemudian pimpinan Markas Staf “W” memasang plakat di tangsi
Alas Baha yang ditulis dalam dua bahasa yaitu bahasa Jepang dan bahasa
Inggris yang ditulis oleh I Wayan Likes dan sekretarisnya I Made Mardia.
Berkat plakat itulah akhirnya dua orang serdadu Jepang (I Wayan Sukera
dan I Made Sukeri) menyerahkan diri di desa Penarungan, Badung.
I Made Sukeri setelah menyerah kepada pasukan pejuang di Markas “W” Penarungan
sangat rajin belajar bahasa Indonesia dan bahasa Bali. Hal itu dapat dipahami
karena beliau secara formal telah bergabung dengan pemuda pejuang Bali.
Akhirnya antara I Wayan Sukera dan I Made Sukeri akrab dengan masyarakat,
terutama para pejuang di desa Penarungan dan sekitarnya. Bahasa Indonesia
dan bahasa Balipun dapat mereka kuasai dengan baik. Daam perjuangan kemerdekaan
di Bali. I Wayan Sukera dan I Made Sukeri memiliki andil yang sangat besar.
Mereka selalu terlibat dalam pertempuran besar maupun kecil. Misalnya,
dalam penyerangan kota Denpasar pada tanggal 11 April 1946, pertempuran
Munduk Malang, Landih, Pesagi, Tanah Aron dan terakhir di Marga. Kedua
orang bekas serdadu Jepang inilah banyak memberikan latihan kepada para
pejuang terutama dalam hal strategi penggunaan senjata otomatis.
Sebagaimana diketahui bahwa pada tanggal 20 Nopember 1946 terjadi pertempuran
besar yang dikenal dengan Puputan Margarana. Saat ituah I Made Sukeri gugur
sebagai kusuma bangsa dalam upaya membela dan mempertahankan kemerdekaan
RI. Namanyapun kini telah tercatat sebagai pahlawan di Momumen Nasional
Taman Pujaan Bangsa Margarana Di samping itu, ada juga monumen perjuangan
beliau di Blumbungan, Sibang, Kaja, kabupaten Badung.
Oleh karena I Made Sukeri sangat akrab dengan warga di desa Penarungan
dan menyerahnya juga di sana, maka beliau diaben oleh warga masyarakat
tersebut. Berdasarkan informasi yang dapat dikumpulkan, konon keluarganya
dari Jepang sering juga berkunjung ke Tugu Pahlawan Blumbungan dan Monumen
Nasional Taman Pujaan Bangsa Margarana. |
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バリ人戦友が語る松井久年(Wayan Sukera) |
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日本名は松井である。
バハの日本軍兵舎にいた彼は、荒木と共に兵舎を出た。
1946年2月20日、
プナルガン村民は村をうろついている二人を見つけた。
本部に報告すると生きたまま捕らえろと指示された。
二人は田んぼの真ん中の小さな小屋に入り休んでいた。
村人は蜜柑を食べないかと二人に近づき、二人が油断した隙をついて、
銃を奪い、二人を捕らえ、本部に連行した。
連れて行くと、二人はバリ軍に入りたいとのことであった。
逮捕の日が金曜日だったので、スクラ(金曜日)と名づけられた。
松井は1915年生まれで日本で結婚していると言う。
荒木は1920年生まれで未婚であった。
二人は積極的にインドネシア語とバリ語を勉強し、
永遠にプナルガンの村民になると言った。
1946年3月、本部からの指示で二人はバハの日本兵舎から
武器を奪うことを計画した。
バハでのかっての仲間に手紙を書いたのが功を奏し、
飛行機を打ち落とす重機一基が手に入った。
1946年3月3日、
タバナンのオランダ軍を攻撃するとの計画があった。
その計画は途中で中止された.
次にスンブン村を襲う計画がなされた。
スンブン村にはオランダ軍のトラックが頻繁に往来していた。
このトラックには、
オランダ軍タバナン駐屯兵の食料が積まれていると推察された。
松井と荒木は、14名のバリ人と共にこのトラックを襲った。
しかし、このトラックは囮のトラックであった。
タイヤを撃ち車を止め運転手を殺し、
トラックを点検すると犬が乗せられていた。
その犬の声を聞いて、他のトラックがやってきた。
攻撃は失敗した。
同じく3月、ブルグンガンで作戦会議があった。
各地に散らばっていた軍人もみなブルグンガンに集合した。
そこに本部が作られた。
隊長にイダ・バグース・タントラが選ばれた。
3月24日、
ダルマサバ橋とシバンとアビアンスマルの襲撃計画がされたが、
それらは全て失敗に終った。
それで、翌3月25日、
松井と荒木が隊長のゲリラ軍が構成された。
松井と荒木のゲリラ隊の目的は、神出鬼没の戦いをしながら、
しぶとく生き延びて、いつまでも戦うこと、であった。
このゲリラ隊の合言葉は「ムルデカ(独立)」であった。
3月27日、タマン・サリで作戦会議があった。
この会議で、松井と荒木は、特別部隊の隊長に任命された。
この特別部隊は、重機を扱う部隊として特別に作られたものであった。
4月4日、デンパサールの闘いでは、この特別部隊も参戦した。
ただし、この時は重機が突然使えなくなり、
パグダンまでの逃亡を余儀なくされた。
その後、特別部隊はアグン山で戦った。
松井と荒木は、その後マルガラナに向かい、
ングラ・ライと共にそこで戦死した。
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(原文) |
Riwayat hidup I Wayan Sukera (Matsui) sebelum bergabung dengan pemuda pejuang
Bali tidak banyak diketahui. Berdasarkan informasi yang dapat dikumpulkan
bahwa sebelum bergabung dengan pemuda pejuang beliau bertugas di tangsi
Baha kabupaten Badung.
Pada pagi hari, tanggal 20 Pebruari 1946 terlihat oleh sejumlah warga desa
Penarungan kabupaten Badung, lebih-lebih oleh mereka yang akan pergi ke
sawah atau pun ke pasar, ada dua orang serdadu Jepang berseragam lengkap
dengan senjata dalam keadaan mondar-mandir di jalan desa. Akibatnya, warga
masyarakat itu seketika menjadi curiga dan waspada.
Seorang penghubung yang bernama I Gusti Mangku Puseh segera menyampaikan
laporan tentang keadaan yang mencurigakan itu kepada Pak 12 dan Pak 17
yang kebetulan berada di tempat dapur umum (rumah I Reneng). Atas pertimbangan
yang seksama, lalu diputuskan segera menangkap kedua orang serdadu Jepang
itu dalam keadaan masih hidup. Dua orang serdadu Jepang tersebut telah
berada pada sebuah pondok kecil di tengah sawah, perbatasan antara Penarungan
Timur dengan Abiansemal Selatan sedang duduk-duduk. Telah kelihatan dari
kejauhan dengan jelas bahwa kedua serdadu Jepang memberikan isyarat dengan
mengacung-acungkan bayonet senjata mereka ke tanah. Mengetahui isyarat
demikian, lalu I Gusti Mangku Puseh dan kawan-kawan mendekati kedua orang
serdadu tersebut dengan hati-hati dan waspada. Setelah bertemu, ternyata
komunikasi di antara mereka berlangsung dengan baik, Akhirnya kedua serdadu
Jepang itu ikut bersama-sama dengan I Gusti Mangku Puseh dan kawan-kawan,
menuju ke rumah I Gusti Mangku Puseh. Setelah sampai di sana, kedua serdadu
itu diberikan jamuan makan jeruk untuk sekedar menghilangkan haus, dan
kedua senjata mereka disandarkan pada tembok. Pada kesempatan itulah I
Gusti Mangku Puseh dan kawan-kawan, dengan tipu mus1ihat mengambil kedua
senjata tersebut dan segera melaporkannya kepada pimpinan Markas “W” (Pak
12 dan Pak 17) yang sedang berada pada staf “W I” (dapur umum) di rumah
I Nyoman Pait. Selanjutnya
segera diperintahkan agar kedua orang serdadu Jepang yang tertangkap itu
dibawa ke suatu tempat yakni di rumah I Cipta. Peristiwa ini kebetulan
saja terjadi pada hari Jumat (Sukera dalam hahasa Bali) maka untuk mengenang
hari terjadinya peristiwa itu, kedua orang bekas serdadu Jepang tersebut
masing-masing diberi nama sebagai berikut.
I. I Wayan Sukera nama aslinya Matsui, lahir pada tahun 1915 dan telah
berkeluarga.
2. I Made Sukeri nama aslinya Haraki lahir pada tahun 1920 belum berkeluarga.
Kemudian I Wayan Sukera dan I Made Sukeni sudah intim dalam pergaulan,
sambil aktif belajar bahasa Indonesia dan bahasa Bali, karena mereka berkeyakinan
untuk selarna-lamanya akan menetap sebagai warga desa Penarungan (Badung).
Pada awal Maret 1946 atas instruksi pimpinan, sebaiknya I Wayan Sukera
dan I Made Sukeri mengadakan hubungan dan membuat surat rahasia kepada
bekas kawan-kawan mereka di tangsi Baha, dengan tujuan untuk mendapatkan
senjata. Instruksi itu dilaksanakan oleh mereka berdua dan diutus I Gusti
Ngurah Jelantik (Pak Kawat) dan I Murya ke tangsi Baha, ternyata tidak
beberapa lama, upaya itu berhasil mendapatkan senjata besar “Juki” (penangkis
kapal udara) dalam keadaan masih baik.
Pada tanggal 3 Maret 1946 untuk meyakinkan semangat perjuangan lebih-lebih
untuk menguji mental, pimpinan Markas “W” telah merencanakan untuk mengadakan
penyerobotan ke tangsi Netherlands Indies Civil Administration (NICA),
yang berada di Perean dan Tuka (Tabanan). Setibanya pasukan pejuang di
desa Sembung Sobangan (Badung), atas pertimbangan-pertimbangan yang diberikan
oleh I Candera (Canggu) dipandang sangat perlu mengadakan penghadangan
di sebelah Selatan desa Sembung, oleh karena kendaraaan truk NICA sering
kali lalu lalang dari tangsi Baha atau Denpasar membawa beras ke tangsi
Perean dan Tuka, kemudian melanjutkan mencari sayur mayur di Baturiti.
Pasukan pejuang waktu itu berjumlah 14 orang antara lain I Made Mardia
sebagai pimpinan komando, I Made Gedera, I Gusti Agung Rai Budita, Made
Jojol, I Made Gede Kardi, I Wayan Mudera. Tohir Supangkat Wayan Regug Ida
Nyoman Rai, I Nyoman Jageg I Made Rapug, Ida Ketut Rai, I Gusti Agung Ketut
Tantera, dan sebagai petugas konsumsi I Made Rumek dan I Ketut Waja. Pasukan
tiba di tempat tujuan kira-kira jam 13.00. Tidak lama kemudian terdengarlah
suara menderu-deru Suatu tanda sebuah truk NICA datang dari arah Selatan
dalam keadaan penuh senjata lengkap. I Wayan Sukera dan I Made Sukeri segera
mengambil dan mengatur posisi pasukan di tengah-tengah rumpun pisang dan
di bawah rumpun bambu yang sangat strategis. I Wayan Sukera membidikkan
senapan dan tepat mengenai sasaran sopir truk, Sehingga truk itu jalannya
pincang. Kemudian segera disusul oleh tembakan I Made Sukeri dan tepat
mengenai sasaran kedua roda truk sebelah kiri, di muka dan belakang, sehingga
truk tersebut rebah ke kanan setelah menabrak tiang kawat. Tembakan-tembakan
segera dihentikan sambil mengawasi dan memperbaiki posisi pasukan guna
menangkis serangan balasan dari musuh. Tidak beberapa lama keluarlah seekor
anjing besar dengan mulut menganga dan segera pula diadakan tembakan-tembakan
balasan dari NICA tanpa arah.
Dalam waktu singkat saja, terdengar deru mesin truk dan terlihat bantuan
NICA yang datang, sehingga dengan perhitungan keadaan senjata akan tidak
seimbang, maka pasukan pejuang diberikan komando mundur teratur menuju
ke sebelah barat. Kemudian melanjutkan perjalanan melalui banjar Sayan
dan desa Sobangan akhirnya tiba pada jam 16.00 di desa Ayunan kabupaten
Badung. Selanjutnya serentetan dengan peristiwa di atas maka gugurlah dua
orang pengawal sebagai perintis jalannya pasukan, bernama I Bebet dan I
Sukel (asal daerah setempat). Setelah mendapatkan hubungan bahwa keadaan
sekitar desa Ayunan aman maka oleh pimpinan pasukan segera diperintahkan
untuk kembai ke markas “W” dan pasukan segera tiba dengan selamat.
Pada awal Maret 1946 oleh Ida Bagus Tantra diadakan konsultasi pasukan
secara besar-besaran di Blumbungan. Asrama-asrama darurat didirikan dengan
dipasang telepon lapangan. Di sini juga diadakan perbaikan-perbaikan senjata
termasuk juki dan Tentara Kearnanan Rakyat (TKR). Sebagian dari pasukan
pejuang kabupaten Badung berkumpul di sini, diantaranya Tiaga (Ga1ipati)
Suweca, Sarja Udaya, Sugriwa dan pasukan desa Penarungan. Dengan persetujuan
bulat dari pasukan tersebut, Ida Bagus Tantra bermarkas di Blumbungan sampai
tanggal 17 April 1946. Pada tanggal 24 Maret 1946 direncanakan oleh pimpinan
untuk mengadakan pencegata pencegatan dan penghadangan antara lain: pada
jembatan Darmasaba Sibang dan Abiansemal, yang kesemuanya tidak berhasil,
oleh karena pada waktu itu kebetulan hari Minggu. Keesokan harinya di desa
Blumbungan disiapkan ternpat latihan secara sempurna dengan sistem geriya
yang dipimpin langsung olth I Wayan Sukera dan I Made Sukeri, untuk mengadakan
perlawanan jangka panjang dan serangan secara mendadak. Pada kesempatan
itu semua Pimpinan Markas “W” dan staf “W I” s.d “W.XV” hadir mengikuti
taktik perang yang diberikan oleh I Wayan Sukera dan I Made Sukeri dan
pada waktu itu pula setelah “Juki” diperbaiki dan dipasang, lalu ditembakan
pertama kalinya sebagai suatu tanda konsolidasi Blumbungan diperingati
secara meriah dengan semangat dan pekik “Merdeka ...tetap Merdeka”!.
Pada tanggal 27 Maret 1946 diadakan konsolidasi Taman Sari dengan maksud
untuk menilai dan mencocokkan kekuatan masing-masing staf “W.I s.d “W.XV”.
Pada waktu itu kepada I Wayan Sukera dan I Made Sukeri diakui secara sah
oleh pimpinan Markas “W” untuk dinaikkan status mereka menjadi Komandan
Pasukan Istimewa. Bersamaan dengan itu pula, persenjataan yang telah dimiliki
diberi nama julukan “Jero Gede” , “Jero Sakti” dan seterusnya. Pada awal
April 1946 konsolidasi Blumbungan diadakan lagi oleh seluruh pimpinan Markas
“W” dan staf “W.I s.d “W.XVI” untuk kedua kalinya mengecek semua macam
kekuatan yang ada, dalam upaya penyerbuan selanjutnya.
Pada tanggal 10 April 1946 oleh pasukan pejuang dilakukan penyerbuan kota
Denpasar dengan perencanaan matang dan dengan segala resiko yang dihadapi.
Pada waktu itu senjata “Jero Gede” diserahkan kepada Ida Bagus Sangka (TKR).
Setelah berkecamuknya pertempuran dahsyat antara pasukan pejuang dengan
NICA ternyata “Jero Gede” hanya dapat memuntahkan beberapa rentetan peluru,
tetapi menghancurkan iring-iringan truk NICA, kemudian bungkem. Setelah
diperiksa ternyata peluru dan kain Bali menyangkut pada penembakan, sehingga
senjata itu berhenti menyemburkan peluru. Setelah pertempuran reda, pasukan
mundur memilih tempat di desa Pagutan (Denpasar). Di sini segera diadakan
konsolidasi pimpinan, dan diputuskan desa Pagutan dijadikan Front I pada
bulan Juni 1946 atas perintah pimpinan staf. Karena keadaan semakin rawan,
maka dipandang penlu diadakan
pencegatan dengan mengadakan pembongkaran jalan raya, antara lain antara
jalan desa Gulingan dengan jalan Babakan, antara jalan Anggungan dengan
jalan Penarungan, dan antara jalan Abiansemal dengan jalan Mambal yang
dilakukan pada malam hari oleh pemuda-pemuda Secara bersamaan. Sehubungan
dengan pembongkaran antara jalan Gulingan dengan jalan Babakan, seorang
pemuda bernama I Putu Oka dapat dikejar dan ditangkap oleh musuh (NICA
gandek) sehingga dapat dibunuh di sebelah Barat desa Penarungan. Setelah
peristiwa tersebut, desa Penarungan didatangi lima orang wanita cantik
yang disinyalir sebagai mata-mata NICA. Semuanya disergap oleh pasukan
pejuang dan setelah diadakan pemeriksaan singkat semuanya dibunuh. Akibatnya,
serdadu gajah Merah atau NICA datang banyak, penduduk dikeluarkan dan digiring
sampai di bencingah Penarungan. Tertangkap pada waktu itu antara lain:
Tohir, (ditangkap di rumah I Merta), Dewa Ketut Cukluk, Made Keredek, Dewa
Putu Merta, Ida Bagus Made Merta, Ida Nyoman Rai, Ida Ketut Rai, Made Rapug,
Made Dogol, Ida Kompiang Saren, I Rintig (ditangkap di perbatasan antara
desa Penarungan dengan Tegalkunyit), selanjutnya diangkut dan dibawa ke
tangsi Baha (Badung).
Pada keesokan harinya semua tahanan tersebut diangkut dan dibawa ke desa
kelahiran mereka yaitu desa Abiansemal atas permintaan Punggawa (Camat)
Abiansemal. Setelah dipertontonkan di hadapan masyarakat dan disiapkan
regu penembak, lalu semua tahanan tersebut ditembak secara bersamaan dengan
terlebih dahulu menghadap ke tembok. Sehubungan dengan peristiwa tersebut,
dua orang yang bernama I Gusti Agung Nyoman Raka dan Ketut Kecung juga
tertangkap dan dibawa ke tangsi Blahkiuh, tetapi akhirnya pada bulan Januari
1947 mereka dibebaskan:
Pada bulan Januari 1947 desa Penarungan dikurung oleh serdadu Gajah Merah,
akibatnya tertangkap beberapa orang penghubung, yakni I Wayan Supena, I
Gusti Agung Sopir, I Wayan Samper, I Nyoman Lecir, I Luji.
Demikianlah peristiwa kurungan berulang kali dilakukan oleh pihak musuh,
dengan tekanan dan tangkapan-tangkapan di pihak pemuda pejuang. Pada Maret
1947 atas inisiatif bersama akhirnya bisa memenuhi kewajiban sebagai pejuang,
melaksanakan tugas secara lebih baik. Ketika itu disetujui untuk membentuk
suatu organisasi Penjaga Desa (PD) sesuai dengan perkembangan situasi dan
kondisi waktu itu. Pembentukan itu disaksikan oleh Pungawa Mengwi (Tjokorda
Gede Oka), dengan catatan hahwa Punggawa sanggup memperjuangkan semua tahanan
untuk dibebaskan” Selain itu, untuk dapat melanjutkan perjuangan dengan
tertib dan aman perlu juga dibuat beberapa perlindungan yang bisa menampung
dua sampai tiga hari di bawah tanah, yang sewaktu-waktu bisa digunakan
secara rahasia. Perlindungan disediakan seperlunya pada rumah Pan Swendi,
Pan Suhur, Pan Kandera (I Wayan Mengol), Pan Samplug, Pan Berati, I Seranti
dan lain-lain.
Pada bulan Maret 1948 desa Penarungan dan desa Gerih dikurung lagi, semua
penduduk digiring ke luar desa dan dijemur di persawahan di sebelah Utara
desa Gerih selama tiga hari. Ketika itu, gugurlah dua orang pengawal I
Layud dan I Lemuh karena tertembak dalam menjalankan tugas. Hal itu akibat
dari pasukan pejuang melakukan pembasmian mata-mata musuh pada malam harinya
di daerah staf “WI”. Untuk menghindari kemungkinan buruk yang akan terjadi,
pada malam hari itu juga pasukan melanjutkan perjalanan ke staf “W.V” di
desa Sibang. Setelah beberapa bulan kemudian, tanggal 4 Juni 1948 atas
inisiatif pimpinan I Wayan Repot (Pak Kala Darma) dan Pan Terima yang dihubungi
oleh I Gelgel bahwa di staf “I” perlu diadakan pemantapan dengan jalan
membuat “cap jempol darah” sebagai bukti keyakinan bersama bahwa pasukan
pejuang masih tetap melakukan tugas-tugas perjuangan menurut situasi dan
kondisi. Pelaksanaan tersebut bertempat di rumah Pan Gerana. Pada tahun
1948 itu juga, yang melanjutkan sebagai pimpinan adalah I Gusti Agung Ketut
Tantera. Ida Bagus Nyoman Kaler (Pak Puaka) pernah menetap di staf “W.I”
yang pada waktu itu telah disempurnakan namanya menjadi staf Yudistira
melalui keputusan di pura Panthi, yang dipimpin oleh I Gusti Agung Ketut
Tantera dan Ida Bagus Nyoman Kaler. Pada tahun 1949 sesuai dengan instruksi
dari Denpasar (Pak Gunung) perjuangan dilanjutkan dengan tenang dan tertib
sesuai dengan keadaan pada waktu itu di bawah Pemerintah Darurat Republik
Indonesia (PDRI).
Berbicara tentang desa Blumbungan, berarti teringat kepada dua orang bekas
serdadu Jepang yang bergabung dengan pemuda pejuang Bali, yakni I Wayan
Sukera dart I Made Sukeri. Pendirian monumen di Blumbungan erat kaitannya
dengan peranan masyarakat desa Blumbungan pada masa revolusi fisik. Pada
masa itu, I Wayan Sukera dan I Made Sukeri pernah melatih pasukan pejuang
seama beberapa hari di Blumbungan, terutama dalam upaya persiapan penyerbuan
terhadap tangsi-tangsi NICA di kota Denpasar pada tanggal 11 April 1946.
Konon di Monumen Blumbungan ada tumbuh dua pohon kamboja merah dan putih
Menurut kepercayaan masyarakat setempat, yang berbunga putihlah konon merupakan
penjelmaan dari roh I Wayan Sukera, begitu juga turunnya dua ekor burung
merpati di sana, konon merupakan roh dari I Wayan Sukera dan I Made Sukeri,
Setelah “Long March Gunung Agung” kedua orang Jepang ini tetap bergabung
dengan pasukan Ciung Wanara di bawah pucuk pimpinan I Gusti Nguah Rai.
Dalam pertempuran besar yang terjadi di desa Marga tanggal 20 Nopember
1946, I Wayan Sukera dan I Made Sukeri gugur sebagai pahlawan kusurna bangsa.
Mereka berjuang secara gigih dengan mengorbankan jawa dan raga mereka demi
kemerdekaan Negara Kesatuan RI tercinta.
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