バリ島での日本軍、及び残留日本兵の行動年表
バリ島上陸 ・ 占領 ・ 統治
1942年
(昭和17年)
2月3日

台湾歩兵第1連隊第3大隊長金村亦兵衛少佐に、陸軍第48師団本部からバリ島攻略についての命令が下る。
以下この軍を金村支隊と称される。

2月15日
金村支隊、マカッサルに到着する。
2月18日
金村支隊と海軍の第8駆逐隊は、マカッサルを出港する。
2月19日


サヌール沖に到着、直ちに上陸開始.
稗方典彦主計大尉の証言
)、
午後1330分、クタ空港を占領する。

2月27日
金村支隊、シンガラジャ占領。
3月8日
日本軍、バリ島全体を占領。
4月23日


バリ島を含む小スンダ列島は日本海軍の軍政担当地域と決まり、金村支隊はバリ島を撤収し、ジャワ島への転進を命ぜられる。

5月某日


陸軍に代わり海軍の堀内豊秋大佐の指揮する海軍部隊が
軍政実施に着手する。
以後、バリ島の治安は一挙に改善される。

1944年
(昭和19年)
5月某日


堀内秀雄
は第3警備隊の庶務主任としてデンパサールに赴任する。


日本敗戦時のバリ島
1945年
(昭和20年)
8月17日

敗戦直後のバリは海軍の第2南遺艦隊第3警備隊の統治下にあり小スンダ民政部が軍政を担当していた。
この他に陸軍48師団台湾第一歩兵連隊の阿南大隊(平良氏の直属上司が阿南少佐であった)が駐屯していた。

3警備隊の司令部はデンパサールにあり、民政部と阿南大隊はシンガラジャに本部があり、その頃は民間人も含めると2000人が居住していた。

敗戦後、一部の治安部隊を除き、ムングイ収容所に集められ、復員までの間の集団生活を送っている。

12月20日

スンバワ島より村田大尉率いる10数名の陸軍部隊がバリに着く。

12月某日


平良定三
、木村伍長、中野伍長、田島軍曹の4名がスンバワを離れバリに向かう。 その後4名はバリ島で独立戦争に参戦するが、平良以外の3名は戦死(行方不明)する。


バリ島での独立戦争(残留日本兵関連)
1946年
(昭和21年)
2月20日

松井・荒木、
3警備隊を離隊。

3月2日


連合軍(ガジャメラ)がバリに上陸。
上陸した(サヌール)時は抵抗がなかったが、
次第に住民の反撃に遭うようになる。
この時、ングラライは、ジャワ島のバニュアンギに居た。

3月某日

日本軍武装解除、オランダ軍に武器を渡す。

3月3日

松井、荒木、タバナンのオランダ軍攻撃を計画するも失敗。

3月25日

松井、荒木、ゲリラ軍の隊長に任命される。

3月27日

タマンサリでの作戦会議。
松井と荒木は、特別部隊の隊長に任命される。

3月某日

工藤栄、戦死。

4月某日

ングラライがジョグジャの中央政府より小スンダ地区司令官に任命される。

4月11日


デンパサールの戦い(荒木、松井、堀内秀雄が参戦)。

5月某日

大館、ムンドゥク・サワで戦死。

6月13日

ワジャ(日本兵)、ボンの戦いで戦死。

10月5日

ブンアリ、 高木 ワナサリの戦いで戦死。

11月18日

スラマット、オランダ軍から武器を奪うことに成功する。

11月20日

マルガラナのププタンで、ングラライ戦死。
同じく、松井、荒木、スラマットの3人の日本兵も戦死。

1948年
(昭和23年)
1月7日

バリ軍ゲリラの指導者がパンジの地に集り徹底抗戦を誓う。

8月某日


バリ島の大部分の王様がオランダ軍に投降。
同時に、独立戦争を戦うバリ人が少なくなる。
が、平良定三は6名だけで、その後も戦い抜く。

1949年
(昭和24年)
12月27日


イ・グヌン
 は、この日まで戦っていたと
バリ人兵士が証言する。

1950年
(昭和25年)
1月15日

平良定三、インドネシア軍に説得され、山を降りる。